読書の量的な

あいかわらず金原ひとみとか朝吹真理子を読んでいる気がする、むしろほかの話したか?

 

 本を読まない、本を読む、そうなのかもしれない、ただ、なんで?つまり、なににより、本を読んだといえるのか、1ぺージは読書か、計上していいのか、この本、まだ中盤までしか読んでいないがたいして、中盤までは読んだ。しかし、読んだ冊数となると、やはり初めから終わりまで読んでおきたい。などと書いているのは、本を読まない近年の人間ども(新聞には、わかもの、と在ったような気もするが、はたして本当に若者だけだろうか?読書が当然の習慣として存在しない環境があるなら、その環境内で若者が本を読まないのは、若者だけの責任なのだろうか?君らは本を読んでいるんですか?いえに書籍はありますか?だいたい、書籍へのアクセスが困難である。文芸のジャンルは細分化が進んでいる印象というか、集英社の日本人女性作家のハードカバー恋愛小説と、国書刊行会の現代の海外文学シリーズは、明らかに違う読者層を持つように思えてならないと偏見してしまうけれどどうなんだろう?書くいう私の本棚には、シオラン朝吹真理子と勿論金原ひとみがある。最近のマイベスト金原ひとみは新潮に掲載された「ストロングゼロ」。これはアル中で鬱の人間の話で、初期作品群のような気違いじみた印象があってよい。「憂鬱たち」が初期作品群かは知らないが。)がどういう過程で本を読まないかに関して関心があるとかそういうことではない。本って何だよ。電子書籍含め本を読まない。バトル系少年漫画も読まないのだろうか。暇ではないのだろうか。怖くないのだろうか。というのも本を読んでいない時間、人間は現実感あふれる現実に曝露されているわけだ。それがつらくないのか。気が知れないといえば楽なのかもしれない。でも本を読まないと生きられないことが果たして優位なものか、だとしてもほんの読む読まないに優劣はないという、言っておくのが、本心にかかわらず適切な作法というものではないのか。だから私は各所からの苦情をおそれて、行為に優劣はない、読書をするかしないかは個人の判断に白紙委任されている!と書いておく。木下古栗と佐川恭一では全然印象が違うんですよ。ということ。古栗は中原昌也のほうが近いが、中原昌也は投げやりだ、印象が。に対して木下古栗は寧ろ過剰な執心みたいなものを感じる、対象は知らない。佐川恭一が話題に上ったのは、木下古栗を検索している方はこちらも検索しています、とサジェストされたせいだ。佐川恭一は実は木下古栗ほど好きではない。たぶん内容ではなく文体が好きなのが木下古栗なのであるが、東西の文化圏の違いなのか、気取ったところが感じられないのがかえって好みではなく、まあ、男子校の会話なのかなと思いながら佐川恭一を読んでいるけれど……。木下古栗は文学青年!絶対ソローキン読んでるよなって感じ。佐川恭一がどうかは知らぬ。まあ文学青年というのは何らかのブログからの受け売りなんですが、自分でもそれは尤もだと思いますね。そうでないなら、あんな村上春樹のパロディしていないと思うのだけれど。朝吹真理子のことばはきれいだなと思いながら汚泥のような日記を書き続けている。とはいえ活性汚泥は役に立っているわけであり、これはそのような役に立つものに対して工業廃水に近く、しかしはたしてそれとたいする有益な生産物があるのか、生産物は有益なのか、シオランがどれ一つとして読み終わせない、というか工場の生産物は有益なのか、それを言うためにはそれを消費または使用する人間が有益である必要がある気がするが、人間は有害であって有益ではないという雰囲気がある。どこに? 別に私は地球上の環境破壊を問題にして人間を滅ぼしたいとか言っていないのは確認しておいていただきたい。そういうことではない。しいて言えば、ばからしいから。滑稽だから。滑稽なくせに辛いから。生きるのが。そんなもの初めから存在しないなら楽なのに、程度の発現。だいたい家畜の責任をとれないなら、作物の責任をとれないなら、人間は滅ぶ前にそいつらの責任を取るべきだろうとそれだけは思う。あの父も母もない生き物たちの群をまさかその辺に放り出すつもりか? 人間との素敵な共依存関係を即座に物たぎるような真似はしてほしくないけれど、動物一個体一個体に関しては本当にどうでもいい。ただたぶん、人間があまり好きではないというかむしろ嫌いな節があり、その辺の信条からくる嫌味なんだろうと思う。こういう具合にして私はWordでしかはなせなく、人間を目の前にすると沈黙してしまう。だからといってこの文章を手渡すのはあまりに奇異だろうなと思う。たいして奇異ではないかもしれないけれど、奇異ではあるはず。ところで食品が、立ちくらみ、こまるねえ。というのは、起き抜けに固形物が食べにくく、そのせいで朝食が取れず、朝食後の医薬品がとりにくいというような話だ。