漠然と最悪

タツムリ探しの午後

 

 漠然と最悪の気分であって、ゲームから離れたとたんに死にたくなった。人体は最悪だ。死ねばいい。そう私が。死。死んだことはおそらくない。それともここで多くの人間がしに続けているのか。自己治療としてのライティングを私はしなくてはならない。乞食が門をたたくことがなくても、自発的に門は叩かれなくてはならないから。もちろんそういうことは含まれている。自己治療仮説に。そうであるならば私が描きだした醜い現像は私であり私が好みにくんだすべての虚像か?わからないのは感情がニュートラルだからではなく、感情の解析のシステムが未熟で甘いからだ。ザルともいう。食事は悪だ。紛れもなく。食べたら具合が悪くなった。サーモンのオープンサンドは不味いとまでは言わないが、決して褒められた出来ではなかった。過去の編纂を積み重ねても死人ばかりが沓を鳴らす。かまわない、かまわないさ、できそこなったところで私の感情語の不備だ。冷蔵庫の中に眠る嫌悪感は今朝の承諾と憎悪で緩やかに瓦解した。手に負えないような気がしているのは実態だが、それもここにはないのだから。雨が降り出したことは、私の、クロチアゼパム服用とは関係があるのだろうか。椅子から転げ落ちないように、せいぜい意識を保てと詩人はのべた。そんな詩人いないけれど、私の死体と衣類、生活史の山の中で死に絶えてゆく記録と軽蔑をせめてこんな場合にくらいは顧みてやってもいいのではないだろうか? 軽蔑は、にこりと微笑み、私は軽蔑に甘い紅茶を供する。茶葉は甘くなく、砂糖がどっさり。解体されるわたくしの遺骸に重ね合わせたのはあらゆる吐き気がする「健全な」言葉たちで、彼らは検閲ののちにも安らかにのさばること請け合いだったわけで、このような墓地にまで見舞いに来なくていいよと伝えた。いやどうしてオープンサンドもまともに作れないのだろうな。自分の瑕疵を掘り返して書きまわしているときのほの暗い興奮にまた見舞われているような気がした。停滞。失態。荒涼。廃墟のような人格者。支える宗派はゲテモノのあげつらい。ならば笑うことさえ阿呆のしぐさだ、やめておいた方がいい、そんなにまでして何になりたいんだい、何にもなりたくはないとも、どこかに一山いくらで落ちているおいしいごみのような何かが産生されることを私は望んでいるわけだが、それでも存在しない頭痛は私の声となり、存在しない精神疾患は実際に存在し、ここに去る現在はここでもどこでもない街へとなり替わる。絶対に油を使って調理するときは戸を閉めておくべきで、酸化した油のにおいが衣類に染みついて吐き気がした。だいたい、ピザがまずかった。まずいものはいくらでもあげられるのに、おいしいものも割とあげられる。それって感覚の過多なのかと閉口してしまうけれど、多分本当に不味いのだと思う。ただ、人間と空間を同じくすることがとんでもないストレスになるから自室に逃げてきたはいいが生活することもまたとんでもないストレスなので、確定申告ができずに犯罪者になる未来が、それまで生きていればね、見えるけれど、未来は忌まわしい、ペテン師の笑顔で私に手を差し伸べ、胸焼けがするような猫なで声でこちらへおいでと招く、そんなものねえよ、くたばれ、はたしてその鉛玉が殺したのは私だが、幸運ってーのはそうないので、生きているのももう嫌ですが、疲れているんです慢性的に、鉄、鉄をもらった。鉄はしかし、鉄剤はしかし、カフェインと相性が悪いときて、当惑するばかりだった。手に負いようがない。じゃあ何でわたしは鬱を乗り切ればいいのさ酒か?

 

 感覚はやはり悪だと感じる。さもなければその辺の幼児を憎むことも、ゴキブリのように忌み嫌うこともなかったはずだ。幼児を忌み嫌うことが一般的であるなら、確かに幼児はごきぶりだが……。ゴキブリ、ムカデ、雲霞、その他の害虫や病害虫に対してそうするように彼ら彼女らのことを憎まなかったはずだ。憎しみを持てば関係へ発展しうるし、私はそんな気味の悪い稚児と関係性なんて持ちたくなかった。誰だって必要以上の関係性の中で窒息し世界が逼塞しどうにもこうにも出口も作らず増改築ばかりする脳みそは足りてるかい? 公開できない人間ばかりが増え続け、世界的に悪辣な背反と矛盾の横行が起こるかもしれない。私がここにいたくないことに、理由なんぞは明確にはないのさ、そう語ろうと、それは別段文字の、音の、行列でしかなく、真相は私にもわからない。出来事を記すのであれば私はストレスから逃れるための行動でストレスをもらい受けてしまい(不特定の対象から)、手に余る疲労ばかり抱えて酒でも飲まないとやってられんよという気味になるものの、お上品だからブランデーボンボンとかいうかしで手打ち。落雁なども甘いからいいけれど、甘いものばかり摂ればよくないので、塩を飲んでいる。まあ嘘の部類だが、塩を飲むのは健康に悪いが、有塩バターで毎朝茶を沸かしているというのも嘘だ。鍵をかけない記憶は簡単にだまし取られあいまいさの中へと落ち込むから、何かを確認する身振りだって時にあ役に立つさと自身にいいきかせるものの、いまだに生活に恐怖していて、公園で立ち止まると幼児の声、園児の声、児童の声、その親どもの声、ああ忌まわしい、獣性の発露ここに極まれり! というわけでタピオカミルクティーを飲むことも公園ではかなわず、というか別にタピオカもミルクティーも好きではないのでタピオカ黒糖ミルクを注文するのだが、私はたぶん単に黒糖ミルクが好きなのだ。タピオカ黒糖ミルク、氷なし、タピオカ抜きで。毎度。雨が降っている。

 

 誘い込むのが閉園したはずの堅牢さや監視社会の相互保障だったとして、どこにも行き場はなく、あらかた調べるような気力もなく、ただ漫然と結婚を忌む文章の破片どもがどこに落ちていたのかを見繕い続けている。しかし足跡も足音も雨で泥に溶け、ハクチョウは叫ぶわけだ、こんな場所に保安はない!こんな場所に保安はない!そうとも、行き先の定まらぬ旅行なら東海道線が一番と聞くが長い東海道・山陽新幹線、飛び降り、出合い頭、周到な錯乱、確認できない厭人症、あたたかな部屋でうずくまっているのは怖いから、誰かに扉を叩けれるのも、隣人の物音も、健康的な生活の強要をされること、私の望むのは果たして健やかな死か、ただ終わりと途絶の隙間に入り込んだ夕日の隻眼がみているものか、それがその青か、ティーカップの裏側の月面を観たいと願うことなんてないよ。諦めが悪い日々はどこかに放棄して、粗大ごみにばかり囲まれるのは愛着が死んできたからかもしれない。人並みに物を捨てられないことがささやかでひそかな誇らしい特性だったから、自身の生活史としてレシートや予備のボタン、動物のフィギュア、などなどは説明書(読みもしないのに)とともに保管していたのに、とても混とんとした形で、だが、しかしそれらは今や足かせ化恐怖になり、そうであろうと私はもはや物を買うことからも物を持つことからも逃れられず、空間を求めながら空白に恐怖するばかり。いや、部屋が狭いのが悪いのか? 部屋が狭いのは悪いが、部屋が広いことは問題の先送り的な妥結でしかないような気がしている。ものを飼い続ければ覆い隠せる鬱は、ものを飼い続けることができたとして、やがてはその己の修正を食らいつくし単なる広範で全般的な鬱へと発展して、物を買うことではなだめられなくなる。物を買うことができることは一定においては有用ではあるのだが、根治ではなく、寛解とも違うように思う。ともかくも忌まわしい何かが私の精神に起こっており、それがなんだろうかの判断は私ではないものがする。文字は、物だ。だから物からも文字からも、私は離れられず、死ぬまで、おびえ続けるのだ、現実と呼ばれ識別されているものの、文字の保護区への侵略に対して。高性能な廃棄物の夢はやがて願う。あたたかくやわらかな毛布と、疎外の形をとる解放を。