製作者の彩度

何かしらのほの暗い曲

うんざりしている。ささいなことで死にたがった僕はいまとて寒いだとか、無自覚な空腹だとか、将来への投げ売りの予感だとか、いつか死ぬなら今でもよくない?明日できることはたぶん今日もできるんだよ。だとか、部屋で調理できないだとか、抗うつ薬を飲んでもだめだったりだとか、自殺をいつする考え続けて頭がパンクしそうだとか、製作で気を紛らわせてもそれには幾何(いくばく)からたくさんまでの希死念慮が混入し、完成品を眺めた時のそこはかとない暗さにめまいを覚えたりだとか、人間の女が怖いだとか、彼女らの定型発達スピーキングが本当にもう居ても立っても居られないほど怖くてこれが日本標準ですとか言われて調理もされずにその中に放り込まれるのだろうとか、そんな理由で自殺したい。服を着たくないっていうのもあり、服を着ることは自分を位置づけることであるからして、できるだけ警戒色として作用しうる衣服を、実際の色にかかわらず形態などで表現してゆきたいがそれもこれも定型発達成人女性スピーキングへの恐怖からなのだ。あの抑揚、あの抑揚の過剰、あの笑い声、あの大きな笑い声、笑うことは良いことだから、大いに笑うとよい、あの話題、あの、集合……友達がいるのはいいことだから、こんでいる店の席で大いに話すといい。きっと彼女らは私を置いてゆく。もとよりそばにいない人間どもの末路は輝いている。輝かしいものに末路とは言わないがまあ末路なのだ、人なので。これがページに閉じ込められた少女たちなら顛末とでも言おうか。癲狂院、あらゆる人間が、友人ですら恐ろしく、それは距離感を知るというのとも違い、距離が測れないわけだ。僕の友人には私が関連できるような人間が多く、コミュニケーション様式への恐怖は、食堂の女たち(客)ほどは怖くない。怖くないコミュニケーション様式の人間を発掘したいですね?なぜ?怖い様式に長時間曝露されると死ぬから。精神の健康さがただでさえマイナスなのにこれ以上削ってどうしようというのだろう。きっと一生卒業論文なんて書けないのだ。なぜならば文章以外の書式、程度、対応と実際の差異、その他もろもろの、「調べて書いて」以外の部分、人とのかかわりが必要な部分ができないためだ。まず人に聞くという発想がない。人に尋ねることは最悪にして最終の手段だ。私は人を忌む。恐れる。一方的に嫌う。第一コミュニケーションができる気がしない。なにが会話かわからない。本の内容を述べることはできる。しかし会話に困るので、その辺のものであるとか医薬品だとかにかんして述べる。ドメスティックな会話ならそれでいいが、外交的な会話でその手は使えない。僕が求めているのは特定の、僕が関心を持たない書式やその他の情報であり、まちがってもmaison book girl の新譜の感想ではない。でも適宜そういう話題を混ぜていくとより円滑に質問ができるらしい。しかしそれは先方が、先方が?とにかくできるだけ人とかかわらずに済ませたいのだ。及第ラインや優良ラインを適宜目指して、パスしたかった。しかし、人間が無理なので何もかも無理だ。大学、という選定後の限られたタイプの人間とすら、怖くてかかわれないし、私はたぶん、授業などでの厳しい対応と、実際の単位や教えている人間の実情との差異に堪えられないから、本来なら全く問題なく読める類の本すら恐怖で読めず、鬱が良くなっても低血糖の中枢神経症状のようなものに苦しみ、そもそも自己の不具合の鑑別診断ができず、鑑別診断を素人目で行おうにも資料のある図書館に恐ろしくて近づけない、まあ僕は数学ができないから医学部に入るわけはないのでこの点ではある程度問題は少ないが、部屋で虫が湧いた、といえばわかりやすいが、部屋に多くの虫がいた時期があり、それが気色悪くて現住所で調理ができず、ものを食べるもの嫌で、外食ばかりしており、そもそも人間がいやだし、だから外食も何も食事が苦痛だし、店員のかたに悪く思われていると常に思うし、私が何を考えようが私は行儀は悪く、人がいるところはどこでもダメ。