MOTTAINAIの功罪~理念自体を問題にすることは適切か?~

 ごみを捨てる際の分別であったり。

 実家の人間がことあるごとにもったいないといい、(ごみの廃棄以外で)使用済みのごみ袋を再利用するよう私に繰り返し迫り、購入した食品はすべて食べることを良しとし、冷暖房の使用を極力少なくすることを要求し、とにかくことあるごとに「もったいない」という上に、冷蔵庫に食品を、捨てるときまでの腐敗防止ではなく、食べるつもりで放置し、コンビニのATMで預金を引き出そうものならとかく私をなじり、牛乳が高いといい、モッツアレラチーズが高いといい、とにかく買い物のたびにそれは高価であることを私に強調し、教育のつもりか?洗脳にも失敗してるぞ透けて見える、教育のつもりかね、お前はぜいたくだ無駄遣いだぜいたくだぜいたくだもったいないもったいないと繰り返し言うので本当に気が違いそうなんですが、はたしてそれは適切なことなのか?

 例えば、食品をあるだけ食べる(もったいない、捨てたくないという消極的な理由で(例えば、耐え難い空腹は積極的な理由である))のは、よいことか?食品は、食べなければごみである。腐るし。というか、食べられるごみ。まあそれはさておき、食品には自我がない。理性がない。自由意志もない。随意運動もできないし、死体である。人間は生きているし、まあ理性があるかはともかく、意志、くらいはあるだろう。それが個人の自由にできるかはさておき。いまも、私は、なかば実化の妖怪MOTTAINAIに強要される形で、というのは、つまりそれがなければこんなことブログにしてないわけで、外発的な理由から行動している私の意志は自由か、という気分にもなるが、さておき、僕とてみーはーな人間だから、意志や意識のある生物を、それらを持たない無生物よりも優先してしまうのだ。というか、そういう前提で食べ物と接していて、「私を害するくらいなら、食べ物を害する」というのが私の方針で、吐いたり太ったり気分が悪くなったりするくらいなら、確かにそこにあるまだ食べられる食べ物は、捨てたほうがましだと考えているのだが、ごみ袋の再利用を私に(これは私がごみ袋を選択過誤代わりにしているため起こることなので、ごみを出した袋はこの限りではない)迫るような人間は、食べ物がそこにあるというだけで、完食することを美徳としがちなのだろうな、と思っている。私がひどい偏食と少食(まあ、多くの体育会系よりかは?)なので、あきらめているのだろうが、というか基本的に私は甘やかされてはいるので、間食の強要とかはされなかったが、義務教育の教諭にいたなそういう人間、あれは本当に最悪の事態で、私の、「食べたくないものは食べないのがよい」を強化した。というか、食べられる食品をごみにする、またはごみとして捨てるなかば背徳的な喜びを私に自覚させたのはあの、食品をすべて食べさせようとする教諭の存在でもあったように思う。給食にフレンチトーストと、胡麻和え(ほうれん草、ニンジン、何かの青物)、キムチ鍋うどん、が出たとして、ホウレンソウだけ残したらじゃあ人間は即死しますか?しませんね。農家に損害が出るんですか?できすぎたら捨てられる資本主義経済下ですでに売られたホウレンソウ知ったことじゃないですな。というわけで、私は、「食品は尊いから出されたものはすべて食べるのが礼儀であり適切な態度なのだ」という信条をもつ数々の人間との出会いや関係を通して、「食品を残飯として残す」楽しみを覚えてしまった……。というか単に食べきれない。おなか一杯に、食べきる前になる。それを無理に食べたくない。

 過不足なく食べても私はBMIが17台なんだよ!!!!16台にならないわけ!!

 別に食品の話は割とどうでもよかったんですが、もうそれ以外は思い出すのもストレスフルなので記憶が和らいでから気が向いたら書くこととして結びに代えさせていただきます。