いい加減耐え難い記憶力のなさ

これはりんごです。あなたはりんごですか?

 

 あなたはりんごですか?私は何も覚えていない、そう私だったころはまだ私は部屋の隅でクッキーとか毛玉を缶に詰めて出荷していたし、もしくは言葉を話す猿だった。でも今はその記憶の影なのだ……。私はりんごだったころ、オカルトチックな文言を軒並み信じなかったし、今でも信じてはいないが、それは信用に値するからではなく、何かに信仰を与え続けることで得る没入感みたいなものが現実味を、そう、この忌まわしい疎外感を――遠ざけることになるがために、故意に信ずるものを求めた結果としての信用なり没入感なり信仰なりの置き場所がオカルトチックなリンゴの塩漬けだったからとかいうことには今になってようやく気が付いたのだが、どうだろう、これは文として破たんしているか?

 使い道のないペール・ブルーを掲げてみたりするが、昼ではないから光はすけない。浅い血管のような蛇の避けて通る道などを特に地図上に書き記すこともなく、自分が死骸であるという感覚が強まる。動いている以上は意志のある死骸ということになる。意志がなくても死骸は動くので、意志は実は関係がない。卵を焼いたことばかり口にしているが別にそのことの重要度は低い。印象的だった、溶けるバターが。で、バターがとけていると、羊を巡って冒険が始まったり図書館でパンが掠奪されたりする。でも一番印象的だったのは色彩を持たない十字軍がモンゴルへ侵攻してその結果としての現地の修道士および宣教師の当局による、身柄の拘束。というか、高名な独裁者の肖像画と心中すること。そういうことは別に起きていないから、何もない路面を眺めるしかない。でも今日は雨なので、路面を眺めることはできそうにない。

 長くなりそうだったから段落を切ってみる。段落の断面はまるでだし巻き卵のように緩やかなカーブを描き、その後午睡のようにまるっこく猫になっている。秋がさなぎを冷ややかな風で裂いてしまうように、異界が目の前の路面には広がるが、後ろ暗いところばかりが検討される事案においても、得難いものなどは何もなく、多くの人命と資源は結果的に無駄になる。文頭以外に意味はなかったりする。人名と資源は多くの場合無駄になりがちであるしまた、無駄にされても誰も困らないものの無駄など誰も気にしないだろうよ。で何の本を買ってきたのかまるで覚えていない。確かに本屋で1300円が本体のハードカバーみたいな絶対に、少なくとも文庫ではない本を買ったような記憶があるのだが、あと信玄餅が表紙に記載されていた。それから赤系統の黄色の強い帯に、固有の明朝体で、「--::::」。実は掲載されてはおらず、これはキーをたたくための言いがかりである可能性のほうが高い。帯、あったような気はするのだが……。

 だからなにも読めないし手が微妙に上手く動かないのに腹が立つのは私の手が私の道具として描画なり筆記なりをするためであり、それなりの精緻さが手の動作には要求されていることを強く私が思い知っているからでもあり、私はあきらかに文章を書くときに、少なくとも自分以外の、できるなら自分も含めて、読者を想定しない方が文章自体はそこに現れるのだということを意識しておいたほうがよい。読者の存在に、私の文章や、ものを書くことは、向いていないのだということを(意識しておいたほうがよい)。