書字依存

書字か?打鍵だ

 

 字を書いていないと死ぬんですが本当かわからないが人間が怖いしかも食べすぎたし髪の色は悪いし体調はいいわけがなく生きているので当然体調は悪く生きているということが体調の悪さとほぼ同義であり、別に何かを意味している必要なんてないのさ。ないのだが、食品への嫌悪を想としている振る舞いが実家で崩落した結果張りつめていた糸が切れ極度の空漠たる呆然とした自我の空白に放り出されてしまったのか漠然とした恐怖と嫌悪、死への指向、などが見られ、なおかつ人間怖い人間がいなければすべての人間は幸福になれる気がする人のせいにするな私が自殺したらいのではまあそれはそうかそんなどぎつい言葉を並べるまでもなく神経的に無食欲になるには自然に過ぎ強欲に過ぎ、意地汚さが過ぎ、幼さが過ぎる私は私に幻滅しているしかない。

 ボルシチの作り方を読んだのは、『亡命ロシア料理』でだ、が、希望がなにでしょうか、そんな期待はしないでください、人がいるから紛争が、紛争地のニュース、感情の不潔感、感情は、それに執着することが分からないまでも私自身又感情に支配された生き物であるため、悪辣だ。穢い。集団生活から私は集団生活がいかにごみで悪質で粗悪で不浄、なおかつ悲惨で不適切なものかを学んだようにしか思えない。林間学校の、ごみ・オブ・ごみと来たらない私はゲーム、すなわち娯楽ですらそこに必ずしも人間の必要なものを避けるので、なぜなら人間をそろえる才能と意欲に欠けているから、もしくは、人間に積極的にかかわる意欲を持ち続ける才能に欠けているから、人間を必要とする娯楽は不便極まりないと考えがちであって、もちろん絵も文もインターネットで不特定多数に公開しているわけで、そういう意味では完全なあるいはそれに準ずる成立には人間を私もまた必要としているのだが極論絵は一人で描けるし一人で描くものだろう。人間の忌まわしさが、はい、不可解な。

 かかわりたくないなあと思う。人が5人いて全員が違う本の読書に各々没頭していたから、それが何だというのでしょう、そんな場では喧嘩も口論もなにも、起きない、無関心であれば紛争が起きるだろうか?もっといえば人間を狭い場所というか狭くてうるさい場所に閉じ込めるのが誤りだけれどこうした負の感情の発露もまた穢い。なくなれと思わないけれど、書くために私は騙るだろう。といった悪感情も、良感情も悪だし、人間が悪という感じがする、これは私の私情で好みなのだが、人間に人間らしさを与えるものはかつては動物的なものだった、人間は機械こそがその正しさだとそういうことも聞きかじった覚えがあるがそれはまあそうというか、機械でさえも人間のありようではなく、現世、知覚するべきではなく、とはいえ私はとくに宗教的な話はしておらず、ただただ嫌悪感ベースで話しているのだが。したがって、「人間失格よりも胸に刺さった」みたいな広告文が帯にあるとなに?と思うし買う気をなくすし、読む気をなくす、ので、私が佐川恭一を別の何かで多少聞き知っていたのは幸いだった、ふたを開けてみれば『無能男』はたいそう愉快なコメディだったし。私にとっては。まあまだ読み終わってないのですけれどね。まあ私にとって『人間失格』も割と爆笑コメディであって、心中した相手の顔(名前?)は忘れてもあの寿司のまずさだけは忘れないって!よほどまずいまあ不味い寿司はありそうだけれど、なんにでも、不味いものはあるので。これ笑わずに読めませんよ。いや別に人間失格をコメディとか言ってでもまあ、それで読む気を起こす人もいるかもしれないし、『人間失格』は怖くない!敷居も高くない!初めから終わりまで通してなくてもいいから適当なページを開いてみよう!みたいな感じで人に勧めるのもよいですね。

 はい以上でした。