無生物

投了

 

 死にたいが過ぎる。どう死にたいかというと…………生きてるから?それだけで、足りないか?心象とかいう余計な機能のせいで、立ち上がることも字を書くことも、寝たきりを安楽に楽しむことも、何もできない。横になると余命に関する居は句的な考えに見舞われる。余命は基本的にどうにもできないので、余命について考えないで済むためには、死ぬことにより考える機能を失うという解があるように思えてならない。向精神薬をがぶ飲みしてもいいが翌日の体調が心配だ。翌日があるならその翌日も余命に関する強迫的な考えにとらわれ、向精神薬を大量に服まざるを得ないし、延々と、生きている限り、余命に関する強迫的な考えと過量服薬とそれにより起こる意識の不在、を繰り返すのであれば死んでいても大差がないように感じるし、死んでいるほうが楽だろうと。

 運動も多少してみたし、バンドじゃないもん!の明るいアップテンポな曲をYoutubeで流しているし、酒も多少飲んだし、抗うつ薬抗不安薬も一応服用したし、……抗不安薬が怠薬気味だが……だって鎮静剤なんだよ、仕方がないよね?……それでも散歩をしている間かなりの頻度で、落ち込み、つらさ、悲しさ、を感じ、まあそういう感情は人間に持たれるのが道理なのだが、にしても別に進んで摂取したくないし、むしろ発狂したい、強迫性は発狂の親類に見えるかもしれないが、発狂の対極だと思っている、発狂を恐れ、あらゆる破滅を可能な限りに遠ざけるアクションをとろうとするのが強迫なのではなかろうか?確かにそれは時に周囲からは奇妙に見られうるが、当人にとっては、破壊的な事態を避け、つつがなく生活しようとするこの上ない努力の表れなのだ、と思う。

 しかし抗うつ薬を飲み始めてから、確かに以前のような劇的で破壊的な鬱は減ったような気がしている、そう思いたい、抗うつ薬に特に副作用で迷惑な副作用は感じていないし、以前はほとんど立ち入れなかった実家の居間にいられるように、まあ人のいないときだけだが、なった。むしろ短時間なら家族がいてもいられるようになった。まあ、うるさいのでそうはいないのだが、うるさいというのは常軌を逸した騒音があるということではなくごく普通の、人間の会話や生活音、テレビやラジオや家の外の犬や他の動物の音や自動車等の走行音などが私によって、うるさく受け取られるということであって、受け手のほうに問題があると信じている;私の知覚のある種の過敏さで問題はあると。

 文章はまとめて書けないし、仕方がないからそういえば医師がまた変わるので困りましたが、体重が重いので困っている。とんでもなく重くはない。しかしどうしても41キログラムを下回らない。このところずっと、42キログラム程度が続いており、食事の何が悪いのかわからない、運動することが悪いのか、立ちくらみはひどいし、寒さが良くないのか、寒さはどうすることもできないのに、どうしたらいいのか、そもそもすることがなく、したいことは絵を描くことだが、つまり暇なので、鬱が分かりやすい。別に暇ではなくとも鬱ではあるというか鬱にはなる。というか暇でないときの鬱のほうが、「締め切りは待ってくれない」から悲惨。締め切り、試験、などなどを、鬱だからもう気分転換と化した医師3日くらい眠りたいし実のところどれもしたくなくて、休養するにも精神の健康は大切だよね、ってことがよくわかるのが本当に……。郡上八幡の観光とかも、元気がないとできないんですよ、いえ、鬱だから、または鬱だけれど、外出できる人は否定しないし、私だって鬱だったら気を紛らわすために外出したいんだが、見え透いてるんだよなあ、外出の動機が、自己治療だって。だから出先でも落ち込んでみたり、最近とみに体力がない。1年前なら、東京とか喜んで出かけたが、もう無理というか、移動に堪えられない。

 事あるごとに寝込むのでどうしてこう役に立たないのかと自分自身が悲しくなるし、立ちくらみがひどい。そう、立ちくらみが、だから、ジュースとかを飲む動機ができてしまう。食事をしないと貧血になるらしいので、食事(ジュースを飲む)をしようとしてしまう。ああ、そこで緑茶でも飲んでおけばカフェインはとれそうだし、だから活動可能性が高まり、かつカロリーを無駄に取らなくて済むのに、でも適切に最低限の栄養をとっていかないと、それはそれで能率が悪く、つまり、グラフ同士の交点であったり、利益とやむを得ない犠牲;食事のもっともましなバランスがとれる点を探さなくてはならないが、私は人間なので日によってそれが変動しうるのが最悪だし、食事と排泄を強迫神経症じみて考えているせいで、ものすごく殺伐とした気分にならざるをえない。というのは、食事や排せつは人間の基本的な活動として低い、低位の、最低限の、低い階層の、代物であるからして、当然のように、不随意運動さながらにこなされるべきものであり、そういったサムシングを意識を割くことなく自然に行ったうえで、作文や描画、読書、などといった比較的高程度と思われるいわば頭脳労働を行うべきで人間はあるはずだと私は考えているのだ、というか、特に身体的に問題があるわけではない、というわけではないが、少なくとも健康な肉体を持つ若い人間である私が、そんな人間を動かす最低限に四六時中気をとられているのはどう考えても尋常でも健康でもない。まして健康的でもない。鍛えるも何も、いわば筋トレする筋力がまずない。というか一度に食べられないし……。

 というか、一度に食べられないし、どうしても物語に苦手さを感じてしまって、「他人の家で勝手に鍛えてんだよ!」(『ポジティヴシンキングの末裔』、木下古栗作に登場する文)

 

 おわり