製作者の彩度

何かしらのほの暗い曲

うんざりしている。ささいなことで死にたがった僕はいまとて寒いだとか、無自覚な空腹だとか、将来への投げ売りの予感だとか、いつか死ぬなら今でもよくない?明日できることはたぶん今日もできるんだよ。だとか、部屋で調理できないだとか、抗うつ薬を飲んでもだめだったりだとか、自殺をいつする考え続けて頭がパンクしそうだとか、製作で気を紛らわせてもそれには幾何(いくばく)からたくさんまでの希死念慮が混入し、完成品を眺めた時のそこはかとない暗さにめまいを覚えたりだとか、人間の女が怖いだとか、彼女らの定型発達スピーキングが本当にもう居ても立っても居られないほど怖くてこれが日本標準ですとか言われて調理もされずにその中に放り込まれるのだろうとか、そんな理由で自殺したい。服を着たくないっていうのもあり、服を着ることは自分を位置づけることであるからして、できるだけ警戒色として作用しうる衣服を、実際の色にかかわらず形態などで表現してゆきたいがそれもこれも定型発達成人女性スピーキングへの恐怖からなのだ。あの抑揚、あの抑揚の過剰、あの笑い声、あの大きな笑い声、笑うことは良いことだから、大いに笑うとよい、あの話題、あの、集合……友達がいるのはいいことだから、こんでいる店の席で大いに話すといい。きっと彼女らは私を置いてゆく。もとよりそばにいない人間どもの末路は輝いている。輝かしいものに末路とは言わないがまあ末路なのだ、人なので。これがページに閉じ込められた少女たちなら顛末とでも言おうか。癲狂院、あらゆる人間が、友人ですら恐ろしく、それは距離感を知るというのとも違い、距離が測れないわけだ。僕の友人には私が関連できるような人間が多く、コミュニケーション様式への恐怖は、食堂の女たち(客)ほどは怖くない。怖くないコミュニケーション様式の人間を発掘したいですね?なぜ?怖い様式に長時間曝露されると死ぬから。精神の健康さがただでさえマイナスなのにこれ以上削ってどうしようというのだろう。きっと一生卒業論文なんて書けないのだ。なぜならば文章以外の書式、程度、対応と実際の差異、その他もろもろの、「調べて書いて」以外の部分、人とのかかわりが必要な部分ができないためだ。まず人に聞くという発想がない。人に尋ねることは最悪にして最終の手段だ。私は人を忌む。恐れる。一方的に嫌う。第一コミュニケーションができる気がしない。なにが会話かわからない。本の内容を述べることはできる。しかし会話に困るので、その辺のものであるとか医薬品だとかにかんして述べる。ドメスティックな会話ならそれでいいが、外交的な会話でその手は使えない。僕が求めているのは特定の、僕が関心を持たない書式やその他の情報であり、まちがってもmaison book girl の新譜の感想ではない。でも適宜そういう話題を混ぜていくとより円滑に質問ができるらしい。しかしそれは先方が、先方が?とにかくできるだけ人とかかわらずに済ませたいのだ。及第ラインや優良ラインを適宜目指して、パスしたかった。しかし、人間が無理なので何もかも無理だ。大学、という選定後の限られたタイプの人間とすら、怖くてかかわれないし、私はたぶん、授業などでの厳しい対応と、実際の単位や教えている人間の実情との差異に堪えられないから、本来なら全く問題なく読める類の本すら恐怖で読めず、鬱が良くなっても低血糖の中枢神経症状のようなものに苦しみ、そもそも自己の不具合の鑑別診断ができず、鑑別診断を素人目で行おうにも資料のある図書館に恐ろしくて近づけない、まあ僕は数学ができないから医学部に入るわけはないのでこの点ではある程度問題は少ないが、部屋で虫が湧いた、といえばわかりやすいが、部屋に多くの虫がいた時期があり、それが気色悪くて現住所で調理ができず、ものを食べるもの嫌で、外食ばかりしており、そもそも人間がいやだし、だから外食も何も食事が苦痛だし、店員のかたに悪く思われていると常に思うし、私が何を考えようが私は行儀は悪く、人がいるところはどこでもダメ。

破壊的人格の生活不全

死亡記事になに?

 私は私に関して何もわからないのだったから不安で、ただ部屋にいるだけなのにすさまじい不安で、押しつぶされて死にそうな不安で、手芸、しているときはそこまで不安じゃないが手芸なんて身を入れて行えば破産するし神経衰弱になる。死ぬほど疲れる。しかし、私は気がついたのだが、手芸で死ぬほど疲れなくても、死ぬほど不安なのだった。なぜ?

 気がつかないようにしている。大学学部生4年をもう2,3回目で行っていることに、家庭内で進行する高齢化に。言語化したからマシになるとかいう問題ではなく、抜本的な解決策は間違いなく私の死である。が、それは其れとして、死ぬほど不安なのだ。頓服を飲んだ。詳しいことはわからないが、ベンゾジアゼピンだとのことでじゃあ有益無害だねって飲んだ。依存性とかのことは知らないし、大抵の薬物にはあるだろう、というか、医薬品抜きの生活がもはや考えられなくなってきている。朝起きたらカフェイン。それから抗精神病薬抗うつ薬抗不安薬。各種副作用止めは面倒だからいちいち書かないが、何のために飲んでいるかわからないクロルプロマジン。昼に、まあカフェインと不安な時は抗不安薬。この頃常に不安だし、その辺の薬をまとめて飲んだりもしていそうだ。向精神薬を主として精神作用物質を。兎に角カフェインがないと無理。別に錠剤である必要はないが、不安、それにアルコールには厳しい世論がある。運転もできない。カフェインは、不安がマヒするし、運転できる。しないけど。法的な規制がない。三類だし。すぐ買える。その辺の薬店で。緑茶でも酔えるので実家では急須で注いだ茶を四六時中飲んでいる。実家にいるなら別に昼間から酒飲んでもいいのだが、甘い酒しか飲めないうえに甘いものを飲みたくないから飲まない。それに動きが鈍くなる。手先の器用さを要求される作業の常連としては、これは致死的。環境要因が?

 何が環境要因であるかは不明として、明らかに鬱とPMSとPMDDと月経前増悪を併発している気がしている。もう半年はそう思い続けておりしかし精神科の治療しか受けていない。とはいえ私は精神科以外の医薬品への警戒心がばか高いから低用量ピルなんて怖くて飲み始める気がしない。というか抗うつ薬を勝手にやめたノリで適当に断薬したらえらいことになりそうで怖い。事前に検査など受け、相性を見たいところだがそんな裕福さはない。だが不安なので、手芸材料を買い集めたりしている。不安なので?不安だ。何かしていれば落ち着く気がする。作文、描画、何でもよいが、作文や描画は自我と近すぎないかいそこのきみ?季刊エスも買わなくなってきた。投稿して2回くらい、小さく載ったことがあるし、これは自慢してもいいと思うけれど、なんというか、自分より超絶上手い人と、正直言ってあまり……な人の絵が乗っている投稿誌、買いたいですか?だったら超うまい人の書いた画集でも買った方が目の保養。昔はいまより絵が下手だったし、季刊エスに載っている系という概念がなかったから、「みんな絵が上手ですごい!眼福!」とか言って喜んで読んでた。でもですよ、絵が、まあ私よりはうまいのでしょうよ、商業につなげる、みたいな才能の同世代が掲載されてる雑誌、休学ヒキニート体力皆無のわたくしが絵くらいはちょっと描けるけど、みたいな気分で読むのがいかに心理的に有害かは言うまでもないと思うんですよ。大体は投稿したけど載らなかった、ちょっと落ち込んだけど再トライ!みたいな感じだと思うんです。でも、載ったのに、すごーーーく精神に悪影響が出た。え、私の絵でも載っちゃうんだ、とでも思ったかは知らない。というか、描くことや書くことや作ることは趣味であって職業じゃないし職業にする気もないといい続けてきた。だって職業にするなんて精神衛生上よくないし、友人からの学園祭のビラの依頼を、3回とも不穏な絵を描いて3回没にされたから降りたような人間だし。もちろん善意のボランティアなわけで、とはいえ私の絵は此れなんでいやならほかにあてもあることだしっていうそういう驕慢。まあそのことはいいのですが、季刊エスで載っても載らなくても精神がズタボロになることに気がつき、でもいまの発表場所の主流ってどの辺のSNSなのかな、わからないけど死蔵すると悲しいから発表はしたい、でも、でも、ですよ。

 あ因みに3回はたとえです。もうどうしても頭蓋骨を書かないでほしいといわれたので頭蓋骨が描けないなら他を当たってくれっていいました。社会に出たら死ぬ以前に出られないと思うのでアウトサイダーアート……というのも失礼だしうん何も考えられない。ただ言えるのは私は絵を描くしASDじみてるしたぶん診断を求めればASDだといわれるだろうが、それらが関連してるかというと、まあ一有機個体だししてはいるだろうけれど、あのテンプレ的なあれではないような気がね、はい。アウトサイダーアート方面のテンプレをご存知の方には伝わるんでしょうか。

 何も考えたくないですね。

不定愁訴・ブラックメタル

 あからさまなのか

 不定愁訴のなのだろうか、下書き、出来事である。音が過剰に大きく聞こえ、部屋がやたら明るかったため普段部屋を暗くしないために点灯させている卓上燈を消灯したが部屋が明るくなるはずがないため私の神経系に問題があるとみるのがはやいだろう。とはいえ卓上燈も消えていると寂しいもので、すぐに復帰した、ブラックメタルって書いてあったからブラックメタルなんだろうとおもいながら、歌詞をほぼ知らない曲を聴いている。端的には Grim Stars くらいしか聞き取れない。しかもstarが複数形なのかもわからない。聞き取れないからだ。むしろgrimが聞き取れて驚きである。昏い星々と言ったところだろうか、ジャンル的に。と記憶が不安なので調べたら不気味、とか陰惨ちっくな意味が出てきたの普通にどこに海馬置いてるんだって感じですが。不定愁訴できる人間がブラックメタル聴いてるかよ、いや

 ブラックメタル聴きながら不定愁訴する?

 なのだが、不定愁訴、は仕方がないし、それが外部の騒音からきているとなればメタルを聴くのももっともなのであって、それは音楽には外部の騒音には望むべくもない秩序があるからって百万回くらい書いた。大体の原因はおそらく眼精疲労と見当がつくから画面で文章を書くべきではないのだが、書字するほどの体力がない。仕方がないのでキータッチだ。ちなみに聞いているのは Belzebubs 。だいぶ眠いのだがこれカフェイン効用でてるのか?医薬品に関して、症状に関して、症状の手に負えなさと理不尽な身体に関して、語りたい気分はかなりあるが、たとえば量的に大量の書かれたものをかき集めて依存性の高い医薬品の販売を規制する試みが出た時に困るのは誰か、まあ依存性の高い医薬品に頼ってなんとあkしている時点で医療機関で正式に治療を受けるべきなんですが、通常の、とされている最大公約数的活動レベルで生活できない身体的または精神的、いうなれば心身の脆弱性を抱えた人間が要求される最大公約数的活動量をこなすために無理をしだしたあたりから薬物依存に入るなんて―のは普通に考えられるわけで、ベースラインが鬱、ベースラインが低活発な人間がどう活動することを可能とするかっていうのは問題なんでは?と思わなくもないけれど私は社会学者ではないし別に目指してないし、精神科と社会科学みたいな雑誌あったかな?まああれば読むけど。ベースラインが他人の病気レベルなわけで、齟齬も生じるでしょうと考える。因みに心身の脆弱性が依存・嗜癖などへつながる話は、エドワード・J・カンツィアン(用語説明)、マーク・J・アルバニーズ(用語説明) 著、松本俊彦(用語説明) 訳の、星和書店から出版されている『人はなぜ依存症になるのか 自己治療としてのアディクション』に書いてあります。それを私は読んでいるので受け売りですね。実際わたくしも処方薬の指示に従わない服用をするときがありますが、えーここでそれは私が耐え難いときですって書いたらきれいにまとまりすぎてそれはないだろってそれはない、そうではあるけれどそうじゃない、文章として終わってしまう……。精神が手に負えないときに前々回処方されたリスペリドン飲んだりとかね、あれ、まともじゃん、まともでした。怒りを感じるわけですよ、産業革命以後の工業化社会で時計に随って生きる人間であるところ私の、高校の頃は時間割にしたがって生きる私の、規則的に動作するべき身体が不規則な変化をみせるのが、変化というか変動を持つとでもいうべきか、とにかく動作に安定がない。定時に寝て定時に起きるができない。休息しようにも悪夢が怖くてできない。休息できないのでエスプレッソでも飲んで動くというか無理に動かす。(エスプレッソは比喩ですが、私が違法なものを用いたことはもちろんありませんとも、ただからだが弱いだけの善良な市民ですから)疲れ切る。そのうち疲労の蓄積が限度になり鬱になるが、鬱なのでカフェインを自身に投与する。しかし疲労の回復にはならないしむしろ投与しても倒れる勢いで寝ることすらある。こうなると手に負えない。負えないので抗うつ薬残薬などで処方薬を過量服薬する。非常にバッドな時期が過ぎると減薬しないといけなくなる。というかむしろ間引く必要すら出る。ひどいときのために。いやほんとひどいな。

映画の感想2

 暇

 別に映画の話はしないですたぶん。いや全部見てないし、うるさかった。これで後ろの席の人間にうるさく騒がれたら情緒が決壊するので映画館で観なくてよかった、まあどうせ上映しないのでしょうけど、近隣では。というのは配信サービスの類で見たからです、「うるさい!」本当にうるさい。映画が。あほか。いやあほを描きたいのだろうから、あのうるささはたぶん功を奏しているのだが、うるさい。頭にくる。しかもそのファスト風土映画が撮影場所の少なくとも一つに面識のない知人くらいの土地を含んでいてファスト風土の住人としてはなきそうだよ、そうさここではどこにでもあるショッピングセンターのシネマコンプレックスでやってるような動員を見込みやすいものしか、あれ、映画の感想書いてるな、見られなさそうなので実は案外そうでもないがしかし残念ながら、本当に残念だよ、自殺しちゃいそうだ、徹夜明けに4回くらい性描写?のある「通常の」「狭義の」性描写のある映画を観たらそれは死にたくなるよ見ていてはなはだ気持ちが悪く、観客を不快にさせる以外の存在理由が思いつかない本当に、その映画の、とかではなく、表現として不快さを狙っているかは知らないが、不快なのでなおさら映画が見られないと思った、いや「広義の」「異常な」性描写(当人にとってのみ性的な意味を持ちうるような、たとえば自己切傷とか土を食べるとか人形を油で揚げるとかなにかそういう)ならまだ見られうるんだろうが無理だった、ので早送りした、最悪だ、何がって私の体調が。

 熱中症になりそうな気候なのでとにかく緑茶を飲んでいるので死にそうだしハイって言うのはね、部分的にあるからいいのであって、恒常的にあるべきではないんだ、時には眠るべき、そうですよ使い分けていきましょう、賦活剤と鎮静剤を。自分に処方されているものは適切に(適当にと言いかけた)服用しないとね、まあ処方の外の環境整備がごみ過ぎて死にかけてるのだが……。もう夜も明けますよ。私は人家でこれを書いており生家でもあり、家人が常にこちらに無意識の視線を向けていると思うと発狂しそうになるので彼らの眼瞼が閉ざされている間に絵を描いて文を書いて本をよんで入浴して食事は、適宜っていぅた感じで生活する手はずだったけれどもしかしたら死んでいるのかもね、何もわからなくなってくる。

 よーするに何かインプットが必要だろうという発想だったんですよ、だって好きな曲を聴いて好きな画集をみて好きな漫画を読み好きな本を好きな時に読み描きたい絵を描きたいように描くわけでしょう?それはあまりにも煮詰まりすぎてる。ノイズが要る。何が好きかを自覚するためにはきらいな要素を適度に摂取したほうがいい。好きなものだけの中にひたっていると何が好きかわからない状態になる。そこで不愉快または異質なものに触れるといままで見ていたものが好ましかったとわかる。

 わかりやすい壊れ方をしている。もうお盆なのですか。そうでしたその墓地参詣や死霊の祭りごとのせいで生家に人間がおり、不愉快なので、昼夜逆転とBGMもかねて……えーと、「アズミ・ハルコは行方不明」を見たのだがうるさいよなにか主要な脇役の男が。猿だってもう少しつつましいだろうに。というか猿はうるさいのか?厩に骨が飾ってあるイメージとレイニーデビルと異本猿の手飛浩隆)だがこいつらはみな死体で話さないな……いえ初めは「打ち上げ花火……」を観ようかと思ったんですが人間の清澄にいらだってしまい、やめた。そもそも邦画に字幕がついていないのは大変迷惑なので字幕があるはずだが、聴覚に障害がある人などが困るから、というか自分ももしかして聴覚に障害があるのでは、聴覚処理と言ったあたりで?もしくは視覚が多少人並みより、もしくは私の持ちうる近くの中では過分に得意なので聴覚があまり発達しなかった;人並みよりやや悪いのか。藪の中。というか信じられないだろなぜ徹夜明けにブログ書いているのか。

 音は、聞こえるのですがね。音は聞こえるしなんだかも分かっているつもりだが、文字として存在しないとどうにも落ち着かず、だから音楽が聴きたいときは極力CDを購入している、いつでも見られる歌詞カードはアートワークとしてよいだけでなく、実用にも優れる。それはまあ僕がVOCALOIDの曲をよく聞くせいでもあり時に母国語でない歌詞の曲も聞くせいでもあり、かつ母国語のリスニングが上手くいかないうえに同音異義語が間違えて選択される恐れが私に限らずあるからだとは思うが。

映画はストーリーが分からなくても楽しめる感じなのだと思ったから好きな方です。ストーリー!伏線!主人公の感情と運命の定型文とその破壊!みたいなものは疲れてしまいますね、文脈を共有していないわけだし、そもそもストーリーなどは私にとっては比較的どうでもよく、きれいな画像をつなぎ合わせるための接着剤程度に取ってつけたように存在してくれればそれで充分です。スプラッター映画のストーリーはそれほど重視されないと思っていて、それはスプラッター映画を見に来る、または見たい人間は人がむごく破壊されるさまが見たいからと考えるからあってストーリーはその破壊をいかに良く行うかを支えるものでありと書いてしまうと重要な感じがしますが、ストーリーを見にきてるのではないといいたかったのであり。

 因みにここでいう映画は先ほどの「アズミ・ハルコは行方不明」です。物語は物語であるらしいですが別に……女子高生の金魚窃盗は地方都市が地方都市過ぎて地方都市の住人の劣等感などをいかんなく引き出してくるので疲れてしまい観終わらず、したがって金魚も観ず。

 あとそれと、これは私にとって、または映画を見る人が映画の選定の参考にこれをするにあたりわりと重要ですが、私は映画がそこまで好きではない。映画を見るのに向いてもない。

タイトルを入力する必要があります

 タイトルを入力してください。全角日本文字で290字まで入力できます。

 

 某学生文芸賞怪文書を送り付けるか悩んでいるがあれは書く必要があって書かれた文章であって、文章に意図とかはないのだから困ってしまうな、意図、見出したいらしいよね、よの人間は文章に。などと書くとほんとーに去年の負け惜しみですかって感じででもそもそも競争したくないです、いや優れた文章はあるだろうし優れた~はあるけれど、私は行為は好きでも競技は嫌いじゃああたとえ、そこで優良な方に入ろうがね。あまりさあ、そういうのって疲れません?

 まあ書く必要なんて大ウソで、実は締め切りがあったのでじゃあ書くかって書いたわけだが、締め切りがなくてもここで何かしら書き散らしているわけだ、自分の嫌悪の琴線に触れないように注意しながら。本当にだめ。すぐに虫のフィギュアとか買うから。いやでも、虫のフィギュアはいいですよ。かわいいし、生きてない!素晴らしいのでみんな虫のフィギュアを飼育しようぜ、虫かごで。金魚とかね、いいよね、知らないよ!!ずっと、夏の夜のエアコンの効いた部屋にいたいしさもなくば死にたいってか死にたいんだよ私は!!いかなる幸福に見舞われていようが、っていうか別に幸福は生きる条件でも目的でもない、まあ必要条件にはしときたいんだが、生きるための十分条件なんてないし生きていたくないのだ、確実に(自殺する気まぐれを起こす可能性の高まりなどで)命に係わる医薬品を意外と飲み損ねているから本当に鬱が暴発している気がしなくもない否暴発はしてないけど、まあ鬱である。人間していたくないである。人間の音、とか、人間の存在感、とか、嘔吐してしまいそうな不快に見舞われるね!生きてない!そう、生きているべきでも生きていたくもない!死ぬためにあるんじゃない、j死んでるのが妥当な状況なの!それが口できない和気あいあいとした幸福な空間の幸福感と温かさに窒息しそうだ。

 家庭の暖かで優しい雰囲気とそれらの圧迫感で窒息しそうだ。

 過保護の独裁に窒息しそうだ!(物理的というよりは心理面の振る舞い)

 僕の自傷痕は普通に目視可能だが言及しないやさしさ。

 食事を勧めてくるやさしさ。

 ご近所さんとのかかわりを最小限にしようというふるまい。(はいまあこんな劣等生は実家の恥ですねははは。)

 それらに窒息してしまう。

 第一食事、これである、家庭のやさしさ、母親のグロテスクな側面が最も現れるのは食餌だろう、いかに服飾品に文句を言おうと、化粧品に文句を言おうと、食事にだけはたいしてケチをしない、そうとても、やさしく、気遣われており、彼女は心配性で、そして支配者になりたがる。本人の意思しないレベルでかもしれない。彼女は言うだろう、「支配者だなんてとんでもない!どうしてそういう考え方しかできないの?」しかし私に給餌したのは彼女だ。私を生んだのも彼女だ。自分の血を分けた被造物を支配したがらない母親が一体存在しようか?するかもしれないが、私の母親はそうじゃない。何かと心配し、ものを、くいものを用意してくれる。常に、食べ物であれば、特に異常に高価な奢侈品、嗜好品で無ければ買い与えられる。ほかのものはそうでもないのに。衣服に対する彼女の態度とは対照的。さすがに子供を持つような人間は違うとあきれ、られない。憎悪。そんな人間がこんな人間にかかわらないでほしい。という。 

 まあそういう話です。

重症

過度の摂取は重大なアレルギーの誘発の可能性を高めうることが知られている……?

 人間がアレルギーかもしれないがもはや文章など考えたくない。だからあれほど。はい、述べました。次のように。

「雑記0711

 

 急速に具合が悪くなる、腹痛、しかも最悪なことに、服薬しておらず、これから水を買わないといけないことは火を見るより明らかなので、より一層事態の陰険さを露呈していた。だから言ったのに。ではなく、食べ物、に素手で触りたくないし、食べ物の感触が気味が悪いというのはどこかしら演技じみた節もあり、実はマッシュポテトを作ったりする際のポテトをつぶす感触、が好ましいし食べ物に対しても好意的な意見があるかもしれないが、行動するのにも形から入ることが一つの方策。と言いますか口紅、のようなサムシングと、ごみ袋、飲料水、そのほかなにかなに?かを購入しに行かなくてはいけない、ドラッグストアに。のに、それがなされていない、窓口が怖い。方式が不明。とはいえ、方策の話をすると、

 食事を拒むには食事を嫌悪することは都合がよい。したがって現にまたは実際に食事を嫌悪しているかはさておき、食事を嫌悪しているかのようにふるまうことで、食事を嫌悪している人間になることは悪くないと考える。食事の嫌悪 。確かに人間は両義的なので常に食事を嫌悪することはできないし、またBMI17.6平均の人間が食事を嫌悪しているはずがないのだ、ちょっと努めても、17.6、であるからして、もちろんそれは健康の下限を切っている下回っているとはいえ、実際の生活上の支障などのないいたって健康的な低体重なので、運動などを適度に取り入れることと並行して食事制限は絶対に必要だが、そういってもこのように現在いたって健康優良、というか肥えている人間が、いやまあ、厚労省から見れば健康イズベスト、健康イズグッド、ハブアナイスデイ!なのでしょうけれど、違う、それは私の思想でも理想でもない、というかなまじ厚労省が適当な健康の数値化と化してくれたおかげで、目標が定めやすくて助かる、数値化できないものは苦手だから、健康に加減があることは私にとって、ことを容易にさせる。下限を、数値上、下回りさえすればよいのだから。また、摂食障害に関する書籍もこうした場合に役に立つ。多分、不足しがちな栄養素、注意するべき症状、健康被害の頻度の上昇の起こりうる数値の 範囲。非常に便利。でも私は健康だし。健康さは大切であって、健康であることは望ましいが、健康そうに、この現代日本においてみられることは私を利さない、。死にそうであることがよい。見かけ上、だが、。ええだから、食事に関する姿勢だって言ってしまえば着脱可能なファッションなのですが、うあ人間いる恐怖や、恐怖だわ、怖い、怖いです、隣で会話しないでください、ごめんなさい私が、存命だからこんな目に、ああなにもかも悪い、すべてはこれ罪悪兼害悪です。人間、がいないですか、いないでくれ、此方が、何が悪くて、会話、隣で、恐怖、なぐりつけたりはしないが黙れというくらしが黙れ。」

 もしくは。

「当惑

 

 背後の窓に見られる雨の痕跡はついさっきまでそこにあった残暑の処遇を語るように見えた。いつも悄然とした雨の音に垣間見られる偶発的な想定は、街路灯の明るい路地の雀がの影に落ちて消える。イワナなどがいる川に。背後の雨の痕跡をみとめると、残念そうに話し始める良い農地もそう遠くないことを悟りそうだった。朝顔の残骸に見比べようとしているのは過去の、可能な限りの心中。できそうにない対策の関連性に、見落とした下車するための駅を重ね合わせて、近隣の路線を見渡している。

 そうだ和菓子を買って帰ろうか、誰も食べないけれども。この俊には生きた人間が3割いるし、根こそぎに消滅した畑側の事例を鑑みれば上等なほう、だと思われる。

鑑賞している。

 さらに拡大することもまたあるのだろうか、けだるげな、様子で更新される日時。の合間に平坦な地形図を見合わせている。机の上は散らかっており、何時から洗っていないのか不明なマグカップに誰も。手を付けない。床には剥製のような動物たちの敷物が敷かれており、おがくずが同伴しないことを除けば、悪い心地ではなく質感が優先されがちな傾向。

 落ち着きがないですね、とよく言われたことを恭子は思い出した。蛹を切開してしまったり、雨の日にランニング。常に雨だから、どうしようもない。多弁で饒舌だが、意味の取れないこともしばしば。それより映画を見に行きませんよ……映画館が上映を終了していたために、恭子は鎌倉に、住んでいないので、鎌倉旅行を検討していた。鎌倉に何があるというわけでもないというのが恭子の考えで、どこにいようと用事も何もあったものではないから至極妥当な考えといえた、小町どおりなどが見学予定地。将来的には再開発などが検討される古い住宅地。不十分な区画整理、権利者の諸愛が不明になりながら、恭子はそのアーモンド・アイで見定めるでもなく旅行雑誌またはムックなどを確認しようか、と考えており、まだ当該地域の道路地図も見ていないまま、初夏のけだるい夕暮れに恭子は泥のように巻き込まれてゆき。

 恭子が何者なのか、というのはわかりやすい問いであって、しかし彼女の旅行の性質は彼女の性質によると言い切れる場合に限ってそれはそうなのだ。彼女のしばしば確認ししばしば読み返す図書『油彩画の断面』は広岡さなかにより制作されている。写真が挿画になっている、文芸書。そこに鎌倉が見られたので、葉山などの地名に全く詳しくないので道路地図や旅行誌などで観覧を希望している。恭子は11時くらいにレイトショーが終了というかすでに上映開始より26分の経過を見ているという状況で来たのだった、映画館に。だからそれがハンガリーで撮影された。それはしばしば雨に見舞われる市街地住宅地のスナップ写真のようなもの。重油かコールタールのような判然としない違和感。乖離する語りと、実態。実態は君の解釈でしかないと アオサギがいう。夜の自動販売機が煌々と照らす心外な街路で。行き先不明の行き詰まりに満ち溢れている人工的なわかりやすさ。適切な常套句の引用。恭子はラジオが苦手だから、恭子と呼ばれていた。

 わかりやすい油彩画に重ねてみて、ああもうおしまいになると地方都市の花火大会が近い、きっと鎌倉にはいかないのに。」

 もうなにもわからないんだ、終末していないことさえ私には奇矯な笑い話にもならず、そもそも笑うことに品性の欠如を感じてしまう。人間は忌まわしい。心の底から存在することに呪いを。

書字依存

書字か?打鍵だ

 

 字を書いていないと死ぬんですが本当かわからないが人間が怖いしかも食べすぎたし髪の色は悪いし体調はいいわけがなく生きているので当然体調は悪く生きているということが体調の悪さとほぼ同義であり、別に何かを意味している必要なんてないのさ。ないのだが、食品への嫌悪を想としている振る舞いが実家で崩落した結果張りつめていた糸が切れ極度の空漠たる呆然とした自我の空白に放り出されてしまったのか漠然とした恐怖と嫌悪、死への指向、などが見られ、なおかつ人間怖い人間がいなければすべての人間は幸福になれる気がする人のせいにするな私が自殺したらいのではまあそれはそうかそんなどぎつい言葉を並べるまでもなく神経的に無食欲になるには自然に過ぎ強欲に過ぎ、意地汚さが過ぎ、幼さが過ぎる私は私に幻滅しているしかない。

 ボルシチの作り方を読んだのは、『亡命ロシア料理』でだ、が、希望がなにでしょうか、そんな期待はしないでください、人がいるから紛争が、紛争地のニュース、感情の不潔感、感情は、それに執着することが分からないまでも私自身又感情に支配された生き物であるため、悪辣だ。穢い。集団生活から私は集団生活がいかにごみで悪質で粗悪で不浄、なおかつ悲惨で不適切なものかを学んだようにしか思えない。林間学校の、ごみ・オブ・ごみと来たらない私はゲーム、すなわち娯楽ですらそこに必ずしも人間の必要なものを避けるので、なぜなら人間をそろえる才能と意欲に欠けているから、もしくは、人間に積極的にかかわる意欲を持ち続ける才能に欠けているから、人間を必要とする娯楽は不便極まりないと考えがちであって、もちろん絵も文もインターネットで不特定多数に公開しているわけで、そういう意味では完全なあるいはそれに準ずる成立には人間を私もまた必要としているのだが極論絵は一人で描けるし一人で描くものだろう。人間の忌まわしさが、はい、不可解な。

 かかわりたくないなあと思う。人が5人いて全員が違う本の読書に各々没頭していたから、それが何だというのでしょう、そんな場では喧嘩も口論もなにも、起きない、無関心であれば紛争が起きるだろうか?もっといえば人間を狭い場所というか狭くてうるさい場所に閉じ込めるのが誤りだけれどこうした負の感情の発露もまた穢い。なくなれと思わないけれど、書くために私は騙るだろう。といった悪感情も、良感情も悪だし、人間が悪という感じがする、これは私の私情で好みなのだが、人間に人間らしさを与えるものはかつては動物的なものだった、人間は機械こそがその正しさだとそういうことも聞きかじった覚えがあるがそれはまあそうというか、機械でさえも人間のありようではなく、現世、知覚するべきではなく、とはいえ私はとくに宗教的な話はしておらず、ただただ嫌悪感ベースで話しているのだが。したがって、「人間失格よりも胸に刺さった」みたいな広告文が帯にあるとなに?と思うし買う気をなくすし、読む気をなくす、ので、私が佐川恭一を別の何かで多少聞き知っていたのは幸いだった、ふたを開けてみれば『無能男』はたいそう愉快なコメディだったし。私にとっては。まあまだ読み終わってないのですけれどね。まあ私にとって『人間失格』も割と爆笑コメディであって、心中した相手の顔(名前?)は忘れてもあの寿司のまずさだけは忘れないって!よほどまずいまあ不味い寿司はありそうだけれど、なんにでも、不味いものはあるので。これ笑わずに読めませんよ。いや別に人間失格をコメディとか言ってでもまあ、それで読む気を起こす人もいるかもしれないし、『人間失格』は怖くない!敷居も高くない!初めから終わりまで通してなくてもいいから適当なページを開いてみよう!みたいな感じで人に勧めるのもよいですね。

 はい以上でした。