起床なのか覚醒なのか。

 いま起きたところです。本当にやらかしたのかい?あれこの後何だったかな……

 そうです。京大の文化祭で没になったとか聞くキャッチコピー……京大だっけ?まあそれの現代語訳です、なんだよ現代語って、原文だって現代語だよ!

 なんというか、思想系の本とか読んでいるとつらいです、つらくないですか?自意識過剰なので、「へえそういう人なんだ、思想とか興味持っちゃうんだ、まあ若い子はそうだよねえ、そのうち飽きるけど、え?ニーチェと太宰とシオラン?中二乙w」とか後ろ指さされてるんじゃないかと思われてならない。思想なんてねえよ!!もしくはすべてが思想だよ!教科書に書いてあった、今日の夕飯について考えることも思想だって!

 でそこに「生まれてこない方がよかった」が加わるんですよ。そう、哲学科の学生ならまあそれ系の読書は必要経費ですね。でも哲学科だけは絶対に嫌だという理由から(実は宗教も民俗も考古も嫌だったが)消去法で史学科を選んでしまったので(おかげで気楽に思想とかの本を読み流せますよ)もうタイトルに「歴史」ってあるだけで避けてしまいますからね。(「歴史とユートピア」みたいなタイトルのシオランの本があるような気がした。)気取ってるけど、中途半端。自覚があるだけましだと持ってるところがなお痛い。そう人々から言われるのでは。実にそうだとしか言いようがないから私は気恥ずかしくこうべを垂れて、見つからないように、人から離れて、暗い隅の方で読むしかない。(嘘です人よけにカバーもかけずに人前で読んでます。)本が傷むからカバーはかけるべきという意見と、カバーがあると何の本かわからなくなるのでカバーは描けないべきという意見がある。

 それはそうとして、一度にそんなに食べられないので、分食なんですが、これは無限に太りますね。いや、無限に太ったことはないから知らないけれど。で、くだんのネットスラング?みたいなものについて、「起きた」って覚醒した時点か起床して行動した時点かを疑問に思うわけです。

 それは私だって思想や哲学の本が読める人は普通に尊敬しますが読んでも理解できない本を盲目的に読む自由が私には、少なくとも禁書とかでないなら、禁書の用法こうだっけ?あっていいはずなんですよ。もちろんそれをとやかく邪推する自由も邪推する側にはあるだろうし、一番邪推してるのは私かもしれないんですが。

 ていうかいわゆる「文豪」系、本当に太宰治しか読めなくて、それも全部は読めない。『人間失格』とうばすてみたいな題名の……『姥捨』?は読んだ気がする。いえーいこの死にぞこないっ!(唐突に主人公を罵倒する。)でも彼は文筆家でその分類があって、文豪ってーのは違わないか?というのが私の家庭の意見で、私もまあそう思う。 豪

 ではないのでは

 因みにニーチェは中学校の時に何かで信じがたいほど暇だったから暇なら読めるかと思ったけど読めなかったし唯一読み切る努力をしたゾロアスターさんのお話も落丁に気が付かず読み切れてません。読み切ったと思ったら、実は20ページくらいごっそりなかったので、全体に目を通せていないかった。その後読み返す気力もなく。やっぱり私こういうの向いてない、何が(向いている)といわれても困るが、SFちっくな文芸や文学、エンタメ全開系よりは純文学系というか、読書オタクにうけてるようなやつ、海外文学(ラテンアメリカ・東欧・ドイツ)とかね。私は東欧が好きです。あの辺ドイツ人とロシア人の名前が混ざってたりしていいですよね。『青い脂』のナボコフ7号?がおすすめです。あとサムコ・ターレの『墓地の書』。いや見栄がないとは言わないが!見栄100%で読んでるんじゃないんだよ。文体が面白いとか勝手な読書の理由があるんだよ……。

 それを、それをさあ!

 もうこの話も飽きたでしょうから終わります。