バナナとじゃがいもと遺伝的多様性と人格

でも人格って、細胞とかの実態がないと現れようがない気も

俺はは高校6年生。先日は就職活動19384756社目の大手企業(名前は伏せるがG産業としておく、ゴキブリとは関係ない)の面接を受ける運びとなった。俺は高校6年生。amazarashiの歌詞ではないが「生まれた時から白痴できちがいで」どうしようもなく愛嬌が欠如した内向的で自閉症スペクトラムADHDADHDってAJDDとかAHDDとかADDHとか誤植してから要尺打つことができるASDADHD併発二次障害うつ病。手帳はまだない。吾輩は人間であって、障碍者手帳はまだない。障害か障碍かわからず第一変換候補で描くくらい超絶に無縁なので多分この1048274462社目のゴキブリ産業の面接のあとで不採用の通知が、(大手企業、名前は伏せるが、ゴキブリ産業としておく、Gとは関係ない)来たのだと思う。それでも書面の審査を通過した俺は運が良かった、なんせ直前の2398473621社目のF産業までは、書類を書くことすらできなかったのだ、書類なくしたし履歴書の字が読めないし、俺は字は書けるのに、……俺は字が書けるんだ……そうだ、そこらの文盲とは違って字が書けるんだ!だいたいそこらの人間はぴーちくぱーちくやかましく騒ぎ立てるわりに何についても話していないから文盲なのだ、多分、。だってピーチくぱー地区やかましく話した手言い立てるわりに内容をまるで別のことにしても成り立ちそうな会話しかしてなくない?てかなくない?ありえなくない?いやマジマジで、ほんとーにそーいうとかだよお前、えーと?はい、はいじゃなくて、「そうなんだ」もうさほんと、あたしがこうやって面接の練習してやってんのにやる気あるわけ?てかその辛気臭い面なんとかしろよ。まずはね、こう、さ、表情の暗さって内面の陰惨さを反映してるからさーな、?わかる?だから嘘でも笑うわけ。OK?そう、了解した、じゃあ、あーしG産業の人事ね、「趣味はなんですか」「趣味だと!?」「NG。もっかいいくよ、趣味はなんですか、てかまじだる、茶ーでおごられんと」「おごりますが」「いや、おごりますがじゃねえんだわなこれが、趣味について聞かれてるんだわ」「あ、はい」「辛気くせえっっつってんだろ、趣味はなんですか?」「………………バナナ、じゃないかった、じゃ、ジャガイモ飢饉をご存知ですか。まず社会ダーウィニズム並みの問題がこの発言には含まれる恐れがあるのですが、社会ダーウィニズムはご存知ですか?進化論を人間社会にまで大風呂敷した話なんですが、その、ですね、多様性の話をする際に、ジャガイモの遺伝的多様性と人間の人格的多様性をどこまで近くに並べていいかという問題がまずある以上、また、参考資料というの明治もなく即興でお答えしている以上、そういった問題がここに生じることは避けられないし、つまりきわめていい加減な言説が展開されうると、ええと、そのようなわけでございますが、ええ、本日話しますのはいまは昔、アイルランドがイギリス領だったころ、そこにバナナ農園がありましてね、ほら、バナナ、皆さんがお食べになるね、あれ、種ないでしょう?多分品種改良している農業試験場レベルではあると思うんですけれどね、まあ推測にすぎませんが、はい、そのバナナ、農場レベルではまあ、種イモのような増やし方をしていたように思うわけですね、で、というのは、均質さ、これは管理の容易さを含みますし、好まし形質を大量生産、ええ、コピー機のように、できるってんでえ、各国の農場でされていることではありますがね、ええ、で三丁目の旦那がアイルランドに行くといいまして、それも昨日のことでございます、今日行く今行くというからあんたパスポートもってないだろ、日本の口蹄疫の問題はどうしたと、こう、止めますとですね、ジャガイモを知っているかと、聞くわけです。ジャガイモ、果て面妖な、昨日食べましたがな。はい、唐揚げで。だいたいその三丁目の旦那と飲みに行くというので二件目三件目と回るうちに、とうとう件の屋台にまいりまして、ええ、旗に「件」と書いてございますから、これは間違いありません、で、ポテトサラダのから揚げというものがありましてな、こりゃ妙だと、まあこちとら酔ってましたから、頼んだわけでございまして、はい、それはまあ、いいのですけれどね、話すわけですよ、ジャガイモを知ってるか、って、旦那またですかいってね、会うたびに聞かれればこちらも覚えますから、アイルランドの種イモが全部クローン状態で遺伝的な多様性がないから平等区への脆弱さもすべてほぼ同様で特定の病気で壊滅的な被害をもたらしたと俗に言われる話で、実のところは、まあわたくしもジャガイモやアイルランドの専門家ではありませんから、この程度にしか存じ上げませんが、バナナ農園などで問題視されているような均一な栽培と遺伝情報によるバナナは、なんでしたか、黒斑病?まあ、農業にも疎くございまして、で、その、つまり、病気がね、ひとたび、それが脆弱なのが流行りますと、みな同じ弱点を持ってるわけですから、農園ほぼ全滅なわけです、で、もちろんこれは農作物の性質の問題でして、これを安易に、だから人物の多様性が、などと申し上げるのは、優生思想のような危険なにおいがしますが、さて、趣味と申しまして、先月三丁目の旦那と飲みに行った時のことでございます、おっしゃるじゃないですか、趣味について人に尋ねることが流行っているらしいな、と、でわたくしはもうしあげたわけです、あああの、協調性と活発さを要求する、と、しましたら旦那、ジャガイモの話をはじめまして、もうそれから5か月もジャガイモの話をしております。さて、貴下はわたくしめに趣味をお尋ねになられましたが、おそらくは、趣味について尋ねているわけではなく、ふさわしい回答を」「長い」気がつくと三丁目の旦那も腐れ縁の幼馴染もいなかった。僕はマックで一人、「物語 就活の歴史」を読んでいた。まるで狐につままれたみたいな話だが、俺の話はこれでおわりである。

「     」は申された。

はいそれですか

神は申された、きちんとした就寝をしなさいと。

布団はこう敷いて。この布団をこう使って。(できなかったら私は何かに落第するんだろう)

食事はした?してないならしないさい。(できなかったら神の御心を損ねるだろう、それは恐ろしい話だ)

自分の体は丁寧に扱いなさい(自傷している私は神からそれを隠そうなどと愚考した)

夜は電気を消しなさい(忘れたら?)

寝る前に歯を磨きなさい(できなかったら私は何かに落第するだろう)

居間はきれいに片づけなさい(できなかったら私は何かに落第するのだろう)

ものにカビが生えるからそうならないように管理しなさい(もし何かあったら私の責任として叱責されるんだろう)

部屋を片付けなさい(それができない私に生きる価値はない)

 できなかったら私は何かに落第するのだろう、できなかったら私は何かに落第するのだろう、できなかったら私は何かに落第する、できなかったら私は何かに、できなかったら私はできなかったら、できなかったら、できなかったら、できない、できない、あれとそれとこれとどれだって?できない、忘れた、忘れていないか、叱責される、いやだこわい、わかった、言うとおりにいい子にするから(吐き気がする話だぜ)怒らないでください、私は生きようとすればするほどあなた方の理想からかけ離れていくようです、私はいい子でいないといけないのに、理想の人形を演じないと、ストレスフルだ、それはとても、理想の人形を作りたかった人々への育成ゲーム失敗お疲れ様ですを全力で送りたい、私は、できない、人間を、叱責を、恐れるが故、避けられない被害と知りながら避けようと試みて挫折する(一生懸命にやっても批判や習性が来る課題に注力するなんて馬鹿らしくて)、投げやりになる。放棄したがって、台無しにする。よく字制限はうまくいったかもしれないけれど、実家では食べる子が歓迎される苦痛と苦難のロールプレイング、嘔吐するしかないのかたびたび考える、逃れたい、どこにいてもそこではないと場所にあこがれている一方で生活習慣のあり方から移動を望まなくもあり、自殺、ああそうそうそうですか自殺?逃れたい、怖いから、どうせ、批判だ、おしまいだ、私はおこられないことに慣れすぎた、わかってる、人は絶対に、人なんていらない、苦しむだけだ、いたい人だけがいればいい、私は、いたいのか、いたくないのか?わからない、苦しい、身体的にも頭痛があるが、心理的に辛いので存在が不愉快になる、私は失敗する、私は失敗する、失敗する、やってられない。

 

 課題の進捗の報告が2日もう1日ですが、さきなのに頭は痛いわ工作ならできるわで本当に私はあるべき私から逸脱してる、正しく眠れないなら自死をした方がましだと思う晩に。……。

最近の傾向

ガーリーを着るには身の大きさが余るような

20207月11日

 目が覚めてしまって仕方なくこれを書いている、パソコンを開いて文字を打てるということは、少なくとも私の体調が最悪ではないことを示しているのだろうが、それでも具合が悪いことには違いなかった。朦朧とするし、細かい作業が大してできない。今これを書いているのだって、鼻炎の薬の助けを借りてそうしている。本来人間はそんなことをするべきではないという意見もあるだろう。これは(実際に私に多少なりともアレルギー性鼻炎の症状が多くの日においてあるにせよ)ほぼ薬物乱用だし、碌な結末を招かないことは想像がつく、だがコンサータなどが処方されない以上、頼れる薬物に頼るしかない……でなければ部屋はどこまでも乱雑になり、ものを書くことも当然おぼつかなくなり、きわめて散らかった部屋で呆然と立ち尽くしているだけになる。

 私は上海アリス幻樂団の蓬莱人形というアルバムを聴きながらこれを書いている。いまは多分、東方怪奇談みたいな題名の曲が再生されているはずだ。ここ4日くらい、ずっと、3時くらいに目が覚める。何時に眠ろうと、午前3時くらいに目が覚めている気がする、もっとも、午後3時は15時と表記するであろうから、特に問題がないわけだが(何が?)。そう、「午前」と特記する必要がない。私は此れを一階で書いているが、これは住居に居住可能な2階以上があることのほのめかしか叙述トリック(一階しかなかった)になりうるし、そういうことだ。これを書いている住宅には、居住スペースは一階のみとなる。

 体調が悪い話だった。こんな気候で体調がよい人間なんて頑健すぎて気味が悪いし、頑健な人間はきっと純度の低い鉄器のようにかたくてもろいのだろうから、うどの大木のように図体ばかりでかくて、筋力も代謝も人一倍なのに、37度台の微熱でダウンして寝込んだりしそうなものだ。私の平熱は36度台後半だと思っている。今日体重計に乗ったら、無駄に代謝がよいらしかった。156㎝も身長がある。下手をしたら157㎝くらいあるかもしれない。本当に、図体ばかり徒に大きくなって、なんになろうというのか。おかげで服が2,3着着られなくなった。ワンピースは下にスカートかズボンをはかないともう着られないだろうし、袖が寸足らずだ。だから服を買うときは、できるだけ男物を買う。できるだけ男門を買うということは私が男性ではない、少なくとも男性の体を持たないことを示唆している。

 私は確かに、ある面では、男性の体を持たないことに救われているのやもしれぬ。なぜなら、一般的に女性の方が体が小さいので、不都合にも好都合にも女性の体を持っている私(気味が悪いな、女性の体を持っているだなんて……私は女で身体的にはあるわけだがゆえに女の体をもしくは、女の体を持つことを憎んでもいる)は、「オーバーサイズに服を着る」ことを、男性の衣服を着ることで容易になしうるからだ。もし同様の現象が私が男性だった際に起きようものなら……想像するのもおぞましい。私はnile perch とか、Ank Rouge とかの、ガーリーな服が好きなのだが、もうサイズが合わなくなってしまい、また髪色や顔面の雰囲気も手伝って、男性向けの衣服を大きく着て、中性的な印象の服装をするしかなさそうで、それはそれで悪くないが、悲しくないといえばうそになる。

ワカサギ釣りの休日ではない

最近体調がまた崩れてきた

 

何がかわからない原因だが、体調が芳しくない、まともに歩けないし、立ち上がれないし、意欲も減退していて、出かける理由を頻繁に忘れ、出かけようとしていたことだけが記憶にあり、いざ準備をしようとして、私はこの外出の目的を何に設定していたのかと思う。調理をしない。なぜこんなにも食事を、私は私に要求するのか、苛立っている。体重も減らない癖に、食事を要求するな。おそらく塩味がほしいとかそういった、不純な動機なのだろう。塩味がすればカロリーや栄養価なんてどうでもいいのだろう。食事しようと思い食べ物をそろえると大抵食べきれないので、当惑する。なぜ、正確な量を予期して、私は呉れないのだろうか?『アレグリアとは仕事はできない』を読んでいた。久方ぶりに「木下古栗と二階堂奥歯円城塔とソローキン」以外のものを読んだと思う。そこに金原ひとみを加えてもよい。金原ひとみの「AMEBIC」と「憂鬱たち」は常に持ち歩く金原ひとみ枠にある。ななめ読みしすぎて人間にピアスッシングする技術者本人が一切ピアスを身に着けておらず、「興味がないから」と主人公に答えたことや、カフェでクリームの乗せられたラテを注文し「お詫びに大盛りにしました」とその技術者県カフェの従業員から言われて「盛るだと?」と考えたり、「はちみつもクリームも多ければ多いほどいいよね」「おわびーおわびーおわびわびー」などがそらで書けるくらいだ。そらでかいているせいで実際にはそんな内容がなかった可能性もあるが……最近ずっと、BMIが18を下回ってくれない。何が悪いんだろうと食事のたびに考え、しかし食事は、吾購入する、故に吾あり(変換に任せたら吾になったが我だよな)の一要素として経済活動兼レジャーであるので悩んでしまう。つまり、娯楽として面白そうなものや好きなものを食べるっていうこと。でもこんな田舎にそんなものはほとんどなく、と言えば大庭葉蔵じみてくるが、食べたい!という意欲がないのだった。しかし食事くらいしか楽しみがなく(本当か?)、それが寂しいから鬼滅の刃とか季刊エスとかTulleとか群像とか小説すばるとか現代詩手帖とかアレグリアとは仕事はできないとか朝日新聞の書評とか(金原ひとみ最近シオラン推してますね)生誕の災厄とかを読むのだ。生きにくさが高じて読書をし短歌を詠むのだ。知らないが。まあ高じてはおり、食べるときもいつも、はなはだしい空腹時は別だが、これが食べたいのか、私は?どういう意味で食べたいのだ?これを食べることで44㎏台が45㎏台の大台に乗ったりしないか?しかし食べることは鬱的気分の一時的緩和に役立つので食べるのも悪いばかりではない、しかしそれは食べたいのではなく鬱を緩和したいだけだしコーヒーではダメか?代替できない?カフェインなんか入れたってどうにもならないほど疲れてるんだよ!カフェイン入れたくらいではどうにもならないほど鬱で疲れていて栄養失調気味なんだよ!栄養失調はものを食べないとならないし、素材の味が生きている料理は素材が悪いと終わりだし、肉と野菜は外食で十全に摂取しにくいので困ってしまうよ。でも部屋にいたくないし出かけたくない。もうどうしたらいいかわからない。そうこうするうちに日が暮れて出かけられるようにはなるが(一番文字通りの意味でナイトウォーカーであるし、昼が苦手なので……眩しいし日焼けするから)その頃にはいかなくてはいけない事務室はしまっているのである。学生証の更新手続きができていない理由はその辺にあるのかもしれない。もちろん事務室に行くのが気づまりだという節もありはするし大ありなのではあるけれど。だから長文を久しぶりに書くのだろうが、もう日が暮れるから外にでも出るか、で、私はなにを目的に外出するんだっけ?amazarashiの「ボイコット」通常版?昨日散財したせいでもうだいぶ金を使いたくないというか緊張するので、いや、つねに何かしらの気まずさはある気がする。いつも現状に当惑するのだろう。

工業地帯

本タイトルは内容とは何の関係もなく……

 わけもなくつかれていて、文章、は人間ではないので、人間から逃れるために私は文章をするのだと考えて居るけれど、この方向には、人間が、知らぬ間に潜んでいるように思うのだ、寂し気な狂気とでもいえそうなものが、柱のそばから覗いているいったい何を引き寄せてしまうのだろう、ここにいないことの症例は、はたから、もとい、どこまでが不明瞭な形態をとるのか、治療を、優先しない文体の選択、過半はすでに消費される顛末、そこはかとない外傷をのぞんでやまない症候、人身事故的告白は衝動、さりげなく、場におらず、つねに、人間に曝露されることからくる痛み、に、火傷を見通す、耐え難い騒音、無秩序で非機械的な騒音、外傷にならない悪辣な苦み、それが喉の奥でいつまでも残る、ささやかな悪意、カーテンを閉めろ

 そうだ、そういうことが嫌いだ、寝ることも苦手だ、ひどく疲れていたのならこのまま冥府へと疲れていたのならこのまま膿んだ傷のような蒼白な疲労を抱えて、その場しのぎの葬式の感想文などを献灯した、明けるような5時に、君は知るか、このおぞましき、疲弊の悪疫を、聴覚をもう酷使しすぎたから、私はこの場にいないのだろうが、逃れることが許されない粘着質な朦朧とした、人格たちの交流を、忌まわしいと思いながら眺めているそれだけで、毒は私を食らう、夢を忘れることが上手くできなかった、都市の形成だった、神のようななにか、神にはなれなかったなにかが本を積み重ねて都市を作る誰かが、爛れたまま感染症で死んだ、いや、死ななかった、不活化されたデングウイルス、この城市の、先の、原の、針葉樹林、いや、違う、太宰はいたるところで出版されているせいで、どれを買えばいいんかわからない、もう人間失格御伽草子と晩年ときりぎりすあたりの題名の短編集はもっているが、マクベスパンドラの匣?あたりには関心がなく、女生徒は読んだ。あれ?読書できてるじゃん。できてるじゃん私。太宰はね。ていうかあのあたりあのあたり?教科書近代作家シリーズは太宰しか読めない。伊坂幸太郎も読む気がしないしあとなに?何かしら読めないのがわらわらあるんだ読めるのが、読める……私は文章に関心があってその中身にはさほど関心がないというより人間に関心があまりないか過半の人間とは異なる関心のパターンを人間に抱いていることでしょう、読めるのは木下古栗。佐川恭一はあまりよめない。酉島伝法も疲れてしまったし、もう酉島気分ではないのかもしれなかったし、私が末期だから(まつごだから)何も読めないのかな疲れていた、『八本脚の蝶』と『人間失格』をカバンに入れている25歳、自殺志願者か?そういえばネクライトーキーの曲でも25を過ぎたら死ぬしかないってあるんですが25歳は自殺の好発年齢なのでしょうか。確かにわたしはもう十分すぎるほど生きているからやめたいと疲れているときなどに思いますがね、そういう傾向があるんでしょうか、25歳に?

 

 イヤホンが壊れまして。もうどうしようもねえよノイズキャンセリングできなくなってからユリイ・カノンとトーマのアップテンポばかり入れたプレイリスト聞いていて、曲は好きなんだけれど、九龍レトロ、スーサイドパレヱド、マダラカルト、トーデストリ―プ、などなど、ただ手段として聞くのがつらいしもう少しけだるい曲聴きたいよね、étéとか。あでもカンザキイオリも好きです。昨日はロマンチック願望聴いていたな。一曲リピート。していた時に描いていた絵はできなかったけれど。疲れるから、居間にいると人間が繁茂していて、人間とかかわる人間きもちわるいな。僕か。

うんざりするほど悪意

なにかと、疲弊している

 壁画にはこれでもかと机が書かれている。それを具合が悪くなる。私の言語は悪ですか、それを机でいっぱいの廊下で、押し込めたぬいぐるみの夕立ちを観ている。もう来ない夏を山に埋めに行く、そんなことはどうでもいいから早くこの場から立ち去りたい。永遠に留守番していたい。何もなければいいのに。ここに。言語化することは善ですか。私は具合が悪いがそれは言語化の程度が低いと思うんですよ。何かが起こった時にノイズを極小にすること。劣等感と、不自然なおさまりの悪さが飽和して、気分を最悪にする。この世にマシな場所なんてないが、ここよりましな場所はあるだろう。何だろう、近郊?観覧できないです兼がないのでアスファルトに混ぜ込んだ悪意が芽を出してお前は人権お外にいると話しかけてきた、そりゃそうだろ、このご時世にこんなクソ郊外に生まれた無能に人権なんかねえよごみ野郎が、お前もそう思うだろ?くそったれのマザー*ッカーが?この伏字は使ったことがないが、死が思考に嗜好に頻繁に浮上することは病的か、医学的定義の中で生活することは可能か?いい加減椅子もあるといいと思うけれどそんな暇もスペースもなかった、貸し会議室いっぱいに机を詰め込んだせいで取り出すのも容易ではないからだ、そこに鍋元が紅茶をもぅてきたが特に給仕とかではなく、ペットボトルのまずい茶を、ペットボトル入りの茶の中でも指折りのまずいやつを、自分が飲むように用意しているだけだった。賢い読者諸兄の皆さんならもうお分かりだろうが、紅茶は別に不味くないものだってこの世にはあるのにどれも悲惨なほどまずい思い出しかないわけで、こんなクソ地方都市に生まれた時点で敗北者確定の下級市民、もしくは二等市民。こんなことになるのなら生まれてきたくなかった。

 

 壁画を大根おろしにかける。悪意だけでは補いきれないおさまりの悪さにさらに悪を振りかけるがごとく。緑色の鳥かごに隠された人権破綻の去る冬の夕べに重ねた道のりははるかにかすみ人口過多の都市の心室肥大はとどまるところなく、雪平鍋の底にこびりついた信仰心の名残を焦げ付いた憎悪の形として『見せびらかしていた、ここから去れ』。惨憺たる健康被害のさなかに、環状線をくるくるくるくる降ってきた降雨量巷説の不具合、機械的短期記憶の、ワーキングメモリの、不備、給湯室で眠る、朝がきてほしくないのに人口が増え続けるので死ねば?死体が増えたところで誰もが迷惑するだけだから、人間は初めから存在するべきではないのだ。基本的には怨嗟と強迫症の才能がさわやかに微笑んでいたけれど無視した。なぜならここにには害意と嫌悪が満ち溢れているから、皿の中の本をひっくり返して描いてごらん、夜空の地図を、底には死者の骨、表層には生者の皮膚。なんも信じたくないね!

読書の量的な

あいかわらず金原ひとみとか朝吹真理子を読んでいる気がする、むしろほかの話したか?

 

 本を読まない、本を読む、そうなのかもしれない、ただ、なんで?つまり、なににより、本を読んだといえるのか、1ぺージは読書か、計上していいのか、この本、まだ中盤までしか読んでいないがたいして、中盤までは読んだ。しかし、読んだ冊数となると、やはり初めから終わりまで読んでおきたい。などと書いているのは、本を読まない近年の人間ども(新聞には、わかもの、と在ったような気もするが、はたして本当に若者だけだろうか?読書が当然の習慣として存在しない環境があるなら、その環境内で若者が本を読まないのは、若者だけの責任なのだろうか?君らは本を読んでいるんですか?いえに書籍はありますか?だいたい、書籍へのアクセスが困難である。文芸のジャンルは細分化が進んでいる印象というか、集英社の日本人女性作家のハードカバー恋愛小説と、国書刊行会の現代の海外文学シリーズは、明らかに違う読者層を持つように思えてならないと偏見してしまうけれどどうなんだろう?書くいう私の本棚には、シオラン朝吹真理子と勿論金原ひとみがある。最近のマイベスト金原ひとみは新潮に掲載された「ストロングゼロ」。これはアル中で鬱の人間の話で、初期作品群のような気違いじみた印象があってよい。「憂鬱たち」が初期作品群かは知らないが。)がどういう過程で本を読まないかに関して関心があるとかそういうことではない。本って何だよ。電子書籍含め本を読まない。バトル系少年漫画も読まないのだろうか。暇ではないのだろうか。怖くないのだろうか。というのも本を読んでいない時間、人間は現実感あふれる現実に曝露されているわけだ。それがつらくないのか。気が知れないといえば楽なのかもしれない。でも本を読まないと生きられないことが果たして優位なものか、だとしてもほんの読む読まないに優劣はないという、言っておくのが、本心にかかわらず適切な作法というものではないのか。だから私は各所からの苦情をおそれて、行為に優劣はない、読書をするかしないかは個人の判断に白紙委任されている!と書いておく。木下古栗と佐川恭一では全然印象が違うんですよ。ということ。古栗は中原昌也のほうが近いが、中原昌也は投げやりだ、印象が。に対して木下古栗は寧ろ過剰な執心みたいなものを感じる、対象は知らない。佐川恭一が話題に上ったのは、木下古栗を検索している方はこちらも検索しています、とサジェストされたせいだ。佐川恭一は実は木下古栗ほど好きではない。たぶん内容ではなく文体が好きなのが木下古栗なのであるが、東西の文化圏の違いなのか、気取ったところが感じられないのがかえって好みではなく、まあ、男子校の会話なのかなと思いながら佐川恭一を読んでいるけれど……。木下古栗は文学青年!絶対ソローキン読んでるよなって感じ。佐川恭一がどうかは知らぬ。まあ文学青年というのは何らかのブログからの受け売りなんですが、自分でもそれは尤もだと思いますね。そうでないなら、あんな村上春樹のパロディしていないと思うのだけれど。朝吹真理子のことばはきれいだなと思いながら汚泥のような日記を書き続けている。とはいえ活性汚泥は役に立っているわけであり、これはそのような役に立つものに対して工業廃水に近く、しかしはたしてそれとたいする有益な生産物があるのか、生産物は有益なのか、シオランがどれ一つとして読み終わせない、というか工場の生産物は有益なのか、それを言うためにはそれを消費または使用する人間が有益である必要がある気がするが、人間は有害であって有益ではないという雰囲気がある。どこに? 別に私は地球上の環境破壊を問題にして人間を滅ぼしたいとか言っていないのは確認しておいていただきたい。そういうことではない。しいて言えば、ばからしいから。滑稽だから。滑稽なくせに辛いから。生きるのが。そんなもの初めから存在しないなら楽なのに、程度の発現。だいたい家畜の責任をとれないなら、作物の責任をとれないなら、人間は滅ぶ前にそいつらの責任を取るべきだろうとそれだけは思う。あの父も母もない生き物たちの群をまさかその辺に放り出すつもりか? 人間との素敵な共依存関係を即座に物たぎるような真似はしてほしくないけれど、動物一個体一個体に関しては本当にどうでもいい。ただたぶん、人間があまり好きではないというかむしろ嫌いな節があり、その辺の信条からくる嫌味なんだろうと思う。こういう具合にして私はWordでしかはなせなく、人間を目の前にすると沈黙してしまう。だからといってこの文章を手渡すのはあまりに奇異だろうなと思う。たいして奇異ではないかもしれないけれど、奇異ではあるはず。ところで食品が、立ちくらみ、こまるねえ。というのは、起き抜けに固形物が食べにくく、そのせいで朝食が取れず、朝食後の医薬品がとりにくいというような話だ。