生々しさ

何が生々しいのか、または忌避感

 生々しいというと、忌避的なしぐさで言われがちであると私は思い、実際私はそのような身振りでその言葉を考えている。

 つまり、「食事をすることが生々しいので食事をすることが辛い」もしくは、「家族が目の前で食事をしているという状況があまりにも生々しいので、辛い」と。食事がそれだけで、排泄や死、腐敗、老化、衰退、機能不全などの目をそむけたくなるような者どもを想起させる。特に排泄。食事をしているのに常に脳裡に汚物が浮かんでいると考えてみていただくとわかりやすい。そんな状況でものを食べたくないと思う。いや私は少なくとも、食べたくない。と言うよりも、食欲が失せる。

 とここまで書いて、食欲は悪くはないものとして一応の価値づけを与えられているみたいに見えてくるが、何と言うか、食事の生々しさを表現する一つの表現技法としての「食欲が失せる」だとも考えられると思う。例えばホラー映画紹介の定型表現的に。「食欲が失せるグロ映画」、のような。いや人体の損壊よりも排泄物の方がきついし、新鮮な死体の描写よりも腐乱死体の方が辛いけれど、腐乱死体を表現する人ってすごいですよね、っておもいます。と言うのも、まず需要が限られている。死体表現マーケットの中でも特にニッチなジャンルかと思われる。今切り刻まれました、みたい鮮度良好な死体の方が視覚フレンドリーだと思う。私は表現として、「今切り刻まれました」は好むが、腐乱死体はよほどのことがないとその映像を見たいとは思わない。加えて、えてして廃墟の表現は手間がかかる。人体の廃墟であるところの腐乱死体の表現だって、蛆虫くらいしか思いつかないが、もうそれだけで大変さが想像される。

 と言う私は、カフェオレ片手に人間の内臓の絵を描いていたので、食欲が、常識的に考えてあるはずがないのだが、食事中の読書で(行儀が悪い)、食欲の失せる表現のベスト3が、人体損壊と性描写と排泄および排泄物だと思うのであるが、家族との食事と言うのは、排泄と生殖をダイレクトに私に連想させてくるので(自分がそこに存在する以上はね、それは両親の生殖の結果なわけで、その両親を見ているってことだからもうね、全く見たくないポルノを見ながら食事をしているのも同然ですよ)、私にとってはつらいこと。部屋でしぶしぶつくねの串(焼き鳥。おいしい。)を食べたわけですが、そこに来て思うには、「人によっては、食事なんかよりも私の描いている絵の方が生々しくて忌避感を惹起させられるのだろうな」ということなのだった。