重症

過度の摂取は重大なアレルギーの誘発の可能性を高めうることが知られている……?

 人間がアレルギーかもしれないがもはや文章など考えたくない。だからあれほど。はい、述べました。次のように。

「雑記0711

 

 急速に具合が悪くなる、腹痛、しかも最悪なことに、服薬しておらず、これから水を買わないといけないことは火を見るより明らかなので、より一層事態の陰険さを露呈していた。だから言ったのに。ではなく、食べ物、に素手で触りたくないし、食べ物の感触が気味が悪いというのはどこかしら演技じみた節もあり、実はマッシュポテトを作ったりする際のポテトをつぶす感触、が好ましいし食べ物に対しても好意的な意見があるかもしれないが、行動するのにも形から入ることが一つの方策。と言いますか口紅、のようなサムシングと、ごみ袋、飲料水、そのほかなにかなに?かを購入しに行かなくてはいけない、ドラッグストアに。のに、それがなされていない、窓口が怖い。方式が不明。とはいえ、方策の話をすると、

 食事を拒むには食事を嫌悪することは都合がよい。したがって現にまたは実際に食事を嫌悪しているかはさておき、食事を嫌悪しているかのようにふるまうことで、食事を嫌悪している人間になることは悪くないと考える。食事の嫌悪 。確かに人間は両義的なので常に食事を嫌悪することはできないし、またBMI17.6平均の人間が食事を嫌悪しているはずがないのだ、ちょっと努めても、17.6、であるからして、もちろんそれは健康の下限を切っている下回っているとはいえ、実際の生活上の支障などのないいたって健康的な低体重なので、運動などを適度に取り入れることと並行して食事制限は絶対に必要だが、そういってもこのように現在いたって健康優良、というか肥えている人間が、いやまあ、厚労省から見れば健康イズベスト、健康イズグッド、ハブアナイスデイ!なのでしょうけれど、違う、それは私の思想でも理想でもない、というかなまじ厚労省が適当な健康の数値化と化してくれたおかげで、目標が定めやすくて助かる、数値化できないものは苦手だから、健康に加減があることは私にとって、ことを容易にさせる。下限を、数値上、下回りさえすればよいのだから。また、摂食障害に関する書籍もこうした場合に役に立つ。多分、不足しがちな栄養素、注意するべき症状、健康被害の頻度の上昇の起こりうる数値の 範囲。非常に便利。でも私は健康だし。健康さは大切であって、健康であることは望ましいが、健康そうに、この現代日本においてみられることは私を利さない、。死にそうであることがよい。見かけ上、だが、。ええだから、食事に関する姿勢だって言ってしまえば着脱可能なファッションなのですが、うあ人間いる恐怖や、恐怖だわ、怖い、怖いです、隣で会話しないでください、ごめんなさい私が、存命だからこんな目に、ああなにもかも悪い、すべてはこれ罪悪兼害悪です。人間、がいないですか、いないでくれ、此方が、何が悪くて、会話、隣で、恐怖、なぐりつけたりはしないが黙れというくらしが黙れ。」

 もしくは。

「当惑

 

 背後の窓に見られる雨の痕跡はついさっきまでそこにあった残暑の処遇を語るように見えた。いつも悄然とした雨の音に垣間見られる偶発的な想定は、街路灯の明るい路地の雀がの影に落ちて消える。イワナなどがいる川に。背後の雨の痕跡をみとめると、残念そうに話し始める良い農地もそう遠くないことを悟りそうだった。朝顔の残骸に見比べようとしているのは過去の、可能な限りの心中。できそうにない対策の関連性に、見落とした下車するための駅を重ね合わせて、近隣の路線を見渡している。

 そうだ和菓子を買って帰ろうか、誰も食べないけれども。この俊には生きた人間が3割いるし、根こそぎに消滅した畑側の事例を鑑みれば上等なほう、だと思われる。

鑑賞している。

 さらに拡大することもまたあるのだろうか、けだるげな、様子で更新される日時。の合間に平坦な地形図を見合わせている。机の上は散らかっており、何時から洗っていないのか不明なマグカップに誰も。手を付けない。床には剥製のような動物たちの敷物が敷かれており、おがくずが同伴しないことを除けば、悪い心地ではなく質感が優先されがちな傾向。

 落ち着きがないですね、とよく言われたことを恭子は思い出した。蛹を切開してしまったり、雨の日にランニング。常に雨だから、どうしようもない。多弁で饒舌だが、意味の取れないこともしばしば。それより映画を見に行きませんよ……映画館が上映を終了していたために、恭子は鎌倉に、住んでいないので、鎌倉旅行を検討していた。鎌倉に何があるというわけでもないというのが恭子の考えで、どこにいようと用事も何もあったものではないから至極妥当な考えといえた、小町どおりなどが見学予定地。将来的には再開発などが検討される古い住宅地。不十分な区画整理、権利者の諸愛が不明になりながら、恭子はそのアーモンド・アイで見定めるでもなく旅行雑誌またはムックなどを確認しようか、と考えており、まだ当該地域の道路地図も見ていないまま、初夏のけだるい夕暮れに恭子は泥のように巻き込まれてゆき。

 恭子が何者なのか、というのはわかりやすい問いであって、しかし彼女の旅行の性質は彼女の性質によると言い切れる場合に限ってそれはそうなのだ。彼女のしばしば確認ししばしば読み返す図書『油彩画の断面』は広岡さなかにより制作されている。写真が挿画になっている、文芸書。そこに鎌倉が見られたので、葉山などの地名に全く詳しくないので道路地図や旅行誌などで観覧を希望している。恭子は11時くらいにレイトショーが終了というかすでに上映開始より26分の経過を見ているという状況で来たのだった、映画館に。だからそれがハンガリーで撮影された。それはしばしば雨に見舞われる市街地住宅地のスナップ写真のようなもの。重油かコールタールのような判然としない違和感。乖離する語りと、実態。実態は君の解釈でしかないと アオサギがいう。夜の自動販売機が煌々と照らす心外な街路で。行き先不明の行き詰まりに満ち溢れている人工的なわかりやすさ。適切な常套句の引用。恭子はラジオが苦手だから、恭子と呼ばれていた。

 わかりやすい油彩画に重ねてみて、ああもうおしまいになると地方都市の花火大会が近い、きっと鎌倉にはいかないのに。」

 もうなにもわからないんだ、終末していないことさえ私には奇矯な笑い話にもならず、そもそも笑うことに品性の欠如を感じてしまう。人間は忌まわしい。心の底から存在することに呪いを。