あくまでも私的な

 あとみっくミラクルでぃすとらくてどらいふ

 

 テレビの音、人間の音声、会話、笑い声。文語ベースであること。それが、口語的な会話、または人間との齟齬を生む。その齟齬に堪えられない私。食事をしたら死にたい気分が小康状態になっていたので食事を適宜することにしたが最近では食事をしても、食事をしているという事実の認識によって死にたくなるし、テレビの音声。シャウト。シャウトしたいね。しないが。テレビの音声が気に障る。NHK以外は受け付けておりません。口語的に発話する人間が受け入れられない。これは性質なのでどうしようもないが、この10連休で鬱が悪化した感じがしてならない。もしくは、実家という社会に私が不適応を起こしている可能性がある。彼らの社会的常識的規範的ふるまいにより私は精神をがりがり削られる。摩耗する。ぼろぞうきんになる。

 とにかく鬱がひどいのでリボトリール1㎎とカフェインをカフェオレ(乳飲料)で入れた。このブログが書かれているのはそういう、強引な私自身の賦活によるところでもある。居心地がいいはずというよりは、死海文書? 知らない、眠れない、恐怖が高まる、そう、恐怖が常見付きまとい彼らのあらゆる発話に、行間を読み取ってしまう。いや含意、か。行間、文体、それらは人間の口語、実際に生活上用いられる会話的言語んたいしてもちいるべきではない用語なのかもしれぬ。私は、そこで、「さっきの名詞句なんだが何か問題があったか?」であったり、或は、文章上なら問題のない「私は、……ところで、3キロメートル先にある牧場は最近になってニューハンプシャー改良種を入れたらしいけど……そういえばソフトクリームが食べたいのですが」といった、節、だろうか、とにかく、文の入れ子構造を会話で行ってしまったりする。かといって特に文章語に堪能なわけではないのだが、とはいえ、名詞や単語の間違いが死ぬほど気になり発言後しばらく、30分、1時間、3時間、1日、考え込んでしまうことだってまれではない。しかしこれはあるいは、書字訓練、とは言わないが、文章作成訓練のために書かれている節がある。というのは、会話が成り立たないからなのだ。実家の実亜社会内における倫理道徳規範、と私の齟齬、摩擦、により、ただでさえない私の話題はほとんど無に近づいて限定される。実家における会話の失敗は、私にとって断罪されることという印象をもたらすから、失敗しないように綱渡りをしているのだが、肝心の当人が、やる気がない。会話がどうでもいい。そもそも、人と話すのが得意でも好きでもないのかもしれない。人と話したいとは思うが実家における、(実家では家族は私に対して過保護といえるほどやさしいことは、彼らの名誉のために付け加えなくてはならないだろう)ディスコミュニケーションによって私には、意欲の、継続的な抑圧による、減退が起こっている気がしてならない。仮に私に発言の能力があったとしても、まあないのだが、機能的にはあるが、それがディスコミュニケーションに結びつくとき、私は甚だしい徒労を覚える。そして、その徒労は学習される。徒労を負うくらいなら、会話などしなくてもよいと考えるに至る。しかし私は怖い、私が、なけなしの、それくらいしかまともではない言語能力を、衰退させて、この環境下の影響により、しまうこおとを。まるで呪いのようだ。

 本日の文章訓練はここまでです。