クライシス虚構

別に雑記とかでも良かったんですけれどタイトルは

 金原ひとみの初期作品というのがいつごろのものなのかを知らないし、どの辺の作品までを指すのかも知らないから、初期作品を読んだ、といって果たして初期作品を実際に呼んでいるかはわからないというより、初期作品ではないと一般に思われているものを初期作品だと思って読み続けている可能性は高いのだが、金原ひとみの、『蛇にピアス』、『憂鬱たち』を読んで、と言うよりは読み返していたのだが、私は他にもロシア経済史に関する書籍とか、J・G・バラードの短編集というか、いやまあ短編全集の4巻、具体的には、とは、読もうと思っているしかも図書館から借り出している書籍があるのに、過去に幾度も読んだはずの金原ひとみの初期作品たちを読み返していて、しかしそれにしても、読み返す、と言う作業、これはおそらく初見のもの読むことに比べて、既に内容をある程度知っているはずだから負担が少ないと考えられ、私は金原ひとみの初期作品(だと自分が思っているもの)たちが好きだが、『AMEBIC』も好きだが、『憂鬱たち』がなかなか書店の棚に並ばないので落胆しているのだが、そのほかにも例えば、『小説の家』と言うアンソロジーを、最果タヒの小説が、私はそれを小説だと思っているのだが、すごく大森靖子を想像させるなあ、でも主人公の外見は全然違うけれど……つまり、想像される主人公の外見ってことだが、……と思ってそれから円城塔の小説の訳の分からなさをちょっと覗いて、これは素晴らしいアンソロジーだ、少なくとも私にとって!と思ったので購入してからというもの、本棚に放置してあり、しかも古本だったので申し訳ないことであると思うけれど別に本の購入の話がしたいわけではなくて、私は本を買ったのに本棚に放置していて自分自身の状態とか、体調、正気、意欲、などを疑っているという話をしたいので、この辺の話はあまりしないけれど(古本とは思えない状態のよさだった、エクセレント!)、いやつまり、他にも読む優先順位が高いはずの本を多数抱えながら、既に読んだ本を読み返してばかりいるので自分自身に停滞とか不調を感じざるを得なかったというのが、この長文の主訴なのだ。  

 それにしても頭がおかしいと思う。明らかに。もっと健康的であるなら、多分、新しい文章群を嬉嬉として読んでいたはずだ。それができていない。また、何かへの恐怖とかをよく感じるし、ジャンクフードとかお手製のジャンクフードとかを理性を疑う勢いで胃に詰め込んでいるのに今一つ満足できなくて、それはジャンクフードだからかと思う、それは至極全うな話、でもそれが全然違っていて、全然足りない発想であることに私は薄々気が付いている。もっと駄目にならないとだめで、それはもう強迫的に駄目さを追求していて、そういえば最近錠剤を飲むのが下手になったと感じていたりもする。散剤と液剤は昔から壊滅的だったが、この上錠剤まで飲めないのではどうして病に対処しようか? そうこうしているうちに、トウモロコシでんぷんの味がすっかり友人になって、起きる頃には日が暮れている。本当か? または、西日だと思っていたものが、朝日だったとか。それか、……いや、寝つきが最悪なのは事実で、最近は、午前3時にならないと眠れないし、諧調について考えて入力するような複雑な作業なんてするに堪えられないのがそんな入眠困難の長い夜の常だから、私はまるでリビングデッドかなにか、そういう無能になった気分で……。

 だから、もしくは、それで、あるいは、それから、または、その上、ジャンクフードをどうしてこうも欲するのかとその自分の駄目さ加減にうんざりしながら、駄目さを与えてしまう。このままではどうしようもないものがますますどうしようもなくなり、終末感は終末と出会い、私は抱え込んだ不快感を絶望で治療しないといけなくなる。そんなことができるものか。そして、あらゆるわかりやすい「病んだ」言葉共に食傷している以上、というのは、私が、と言うことだが、私は私自身で私の口を塞ぎ、自分自身の声に対して耳を塞ぐしかないのだ。使いすぎて腐食しさび付いた私にとって陳腐化した辞書がまたこっちへおいでと言っているのを聞きながら、私は砂漠で途方に暮れる。もちろんここは亜熱帯の楽園。最後だけ、嘘だけど。知らない。冬場の昼間平均気温が(空調によるものと言うオチが付く)20℃なら、私はそれを亜熱帯と呼びたい。

 全く以て疲れる話だ。