ここ数日の所感めいたなにか

必ずしもあったことが描かれているとは限らない。

 どうしてこう、私の意識は清明ではないのか。清明な意識に関する私の認識が誤っているために正しい定義づけができず、清明な意識で自分の意識状態を疑っているのか。机の角にぶつけた左腕の痛みは感じられても、右腕の重さが感じられないし、まっすぐに歩けない。ものを見ている実感がないのにものを見ているし、まるで感覚を隔離されたように、いやただしくは遮断されたように、中途半端な麻酔をかけられたように、感じられてならない。その、ものを見ているですらままならない。本当に視力が機能しているとは到底思えないし、三時間前に比べて視覚情報の処理が著しく劣っているように感じられるし、一般的な老化を心配する年齢では自分はないように感じているしそれはあながち間違いではないと思っているのだが、その認識が誤りなのか。薬剤、の使用がことを悪化させていると考えるのは簡単だ。確かにアルコールは他の薬剤より不快な酔い方をする。眠れないせいで翌朝ひどく苛立たせられる。他の薬剤、すなわち、ベンゾジアゼピンとかフェノチアジン系抗精神病薬のような、を使用する前は精神病同然の精神の混乱をきたしていた。身体的な混乱を来していたのかは明らかでない。すなわち、精神的な不具合の鎮静化によって潜在的な身体の不具合が顕在化したのか、もしくは、個の身体的な不具合が向精神薬のような薬剤の副作用であるのか、もしくは全く別の可能性か。

 あるいはいつもこの時期は具合が悪い。二酸化炭素中毒を疑うべきなのかもしれない。一酸化炭素中毒かもしれないし、一酸化窒素やその他の窒素酸化物かもしれないし、私は自動車で自害しようとしているのかもしれないし?古い型のストーブをもう何年も明らかに定期点検することなしに使用している確信めいたものがある。加えて、右耳が重い。それなのに、意識はふやける一方で、書字や打鍵に問題があり、それは空間認知の問題でもありうる。もともと地図が読めなかった。クランクの走行だけが唯一、まともに行えた。常にブレーキとクラッチから足を離さなかった。マニュアル車だったから。運転免許証の対象に含まれるものが。とはいえ、とくに大型車の運転免許という訳ではない、普通車の運転免許証であるのだが、私は自動車以前に甚だしく運転嫌いだった。その上、度々意識が清明ではない。否、清明ではないのではないかという不安に陥る。その上、度々睡眠がまともに摂れていないという不安に陥る。その上、度々睡眠がまともに摂れていない。否、その上、睡眠にたびたび支障がある。その上、睡眠にたびたび支障があるような悪夢を見る。それが悪夢なのかがわからないような悪夢を、度々見るため、睡眠に支障がある。悪夢に睡眠を阻害されている気がするため、鎮静剤を過量服薬することで眠るため、度々意識が清明ではない。否、度々意識が清明ではないのではないかという不安にさいなまれて、まともに眠ることのできない悪夢の源泉を作り出している気がしてならないことが、心身に対する悪影響となって打鍵や書字に微細な、通常意識するに足らない、だが一度意識に上ってしまえば一動作ごとに必ず気になって仕方がなく結果的にその作業全体に目に見えるような悪影響を与えるような影響を与えているのではないだろうか。結局のところ清明さを失った意識が私にこのようなものを描かせているのだろうか。私はたびたび、自分が対象のわからない、だが強い恐怖を感じていることに気が付く。それは音であったり、光景、状況であったりするのだが、そこで恐怖を覚えるような合理的理由が思いつかない上に、あまりにもまとまりやとりとめがなく、つまりは一貫性をそれらの誘因が欠いている。

 

 自室に引き取ったのが幸いした。どう考えても外出先での飲食が災いしている。どう考えても、外出先での飲食の際にカフェオレなどをぬけぬけと注文して食事したことが災いを大きくしている。明らかに、私の強迫性と広義の覚醒剤は相性が悪いと思える。いや、強迫性障害である場合は、それに対してアンフェタミンは悪影響を及ぼすとの聞き覚えがあるが、私がもし医学生なら、試験問題で強迫性障害に関して問いただされたとしても、広義の覚醒剤よりもむしろ鎮静剤を処方するべきである、認知行動療法などの、他の療法と組み合わせながら、と回答するだろう。そういう印象が既にあるから、どう考えても強迫性と広義の覚醒剤は相性が悪いと常にごく自然に、思ってしまう。むろん広義の覚醒剤というのはこの場合、ニコチンやカフェインといった一般的に嗜好品とされるものどもに含まれるものもふくめるあらゆる鎮静の反対方向の、実際、どう呼んだらいいのかわからないが、興奮とか覚醒とかの作用を持つものを勝手に私が便宜的に呼んでいるだけであり、なぜそういうことになるかというと、メチルフェニデート一つとっても、その分類名が判然としないからであり、鎮静剤、というのは、納得のいく分類として引き受けられても、この、「広義の覚醒剤」に関してはどうも納得のいく呼称が自分で持てない。鎮静剤がおそらく正式な用語ではないとしても、その語のさししめすものとその語の結びつきに個人的納得があるのだが、広義の覚醒剤にはない。加えて、「覚せい剤取締法」というものがあり、ここで「覚せい剤」の表記が用いられるのは、この「覚せい剤取締法」において取り締まられるものが、作用ではなく、法律によって指定された特定の化学物質を指示しているからであり、それは「覚醒剤」とは区別される、などと聞き及んだ覚えがあるが、法律用語とはたいていそういうものであると思うし、定義が狭い分、明白だという印象を持っている。だから、私は広義の覚醒剤が、強迫性をより悪くすると考えていて、それはこの文章の強迫性からも明白なのではないか?もちろん、あなたは私の言うことを何一つ信用しないことが可能だし、私がふざけて、誰かの、複数人の、病状記録を参照しながら、特に語義の正確さへの強迫的執着のある人間を装って文章を故意に回りくどく書いて遊んでいるとみることも可能だし、実際私自身も私自身に関してその節を疑う必要があるのだが、別に私が広義の覚醒剤と言ったときは、それを逐一、精神刺激薬、とか中枢神経興奮剤、とか、何でもお好みの名前で呼んでいいし、こういう風にそれらしい名称が一からげに思いつくからこそ、個々の名称の混同が起こりがちであり、だから私はしばしばいらだつし、釈然としない思いを抱くのだ。仮に意味の通る法律用語や、術語を用いたとしても十中八九通じないのだ。それでも、それらは調べれば何に対応しているのかが明らかになる。

 なんだかわからないものを置き去りにするより、がぜんマシ。

 なお私に喫煙の経験はないが、これには受動喫煙は含まないこととし、受動喫煙の用法としては、特に明確な範囲のある用語でなく、一般的な用法で用いているものとする。

 語義への強迫的な執着には、他のものへのつよい恐怖を忘れさせる力があるのかもしれない。私はついさっきまで大声を上げそうだった叫びそうだったことを思い出す。こんな時間帯に大声を上げるのは気が触れていると思われても仕方がないし、大声を上げたら大抵気が触れていると思われる。が、私は音声に関して激しい恐怖があったので、大声を上げそうになったしまた大声を上げるほどの強い恐怖を感じていたのだが、それは間近に人間の話し声や咀嚼音をわずかでも、感覚が過敏な状態で聞かなくてはならない環境だったからで、家族での食事がまさに私にとって、つまりなぜか感覚が過敏になるから、というのは時折、どういう時かは知れずに、ということだが、それは私にとって、なのだが、さておき、感覚が過敏な時に家族で食事をするのは激しい苦痛を私に与えるから、それを想像しただけでも私は叫びそうになるほどの恐怖を感じる。そういうときは積極的に恐怖をアピールしていくことで、こちらの恐怖や嫌悪を先方に伝えることが可能になるから、積極的に恐怖をアピールするとよい、というのは私の実家の個別事情だ。怯えている様子をあからさまに示すとよい。だが、故意に示そうとしなくてももう怯えている以外の様子ができない。常にシャットアウトしていないと気が触れているような動作をしてしまう。奇声を上げる、椅子に対して殴る蹴るの暴行を加える、自傷行為で、特に叩く、殴る、などの動作が含まれ、気が触れていると思われる上に騒音であるので、家族の方でも、放置して個別に食べてもらった方がましだと思うのだろうか、知る由もないがとにかく耐えられないので大変なストレスで恐ろしいことだ。それと赤ん坊と呼ばれる状態の特に人間が嫌いだ。<例えばあなたの手がある。あなたの掌の上に、突然他人の排泄物が置かれるとする。あなたは不快になるだろう。>というようなごく自然な不快感を赤ん坊と呼ばれる人間に関し特に感じるが、基本的に別に生物が好きではないからかもしれない。機能としての生物は、形態としての生物は、構造としての生物は、建築物としての生物は、好ましいと感じうるが、明らかにそう、西尾維新の小説の台詞のように言うのなら(そしてそうであるのなら、ここで、「機能としての生物は好きな『つもり』だし、形態としての生物は好きな『つもり』だし、構造としての生物は、建築物としての生物は、好ましいと感じている『つもり』だけれど?」というべきだろう。)、「ただの生物は大嫌いよ」ということか。(ところでその小説というのは、講談社ノベルスの方の『クビキリサイクル』であって、私の実家の自室の北側の本棚の上から二段目の棚の前の列の本の一番左の一番上あたりにあった気がする。)ただの生物の生物生物しさを露骨に表現して来るから、限界まで装飾や意味を排除してそこに存在していそうだから、赤ん坊と呼ばれる時期の人間が死ぬほど嫌いで、というか、「死んでいたこともないのに生きていることを無条件に肯定するなんてあんたは馬鹿か狂信者なのか?」と思う節もあり、絶対に子供を設けるような愚行には走りたくないと常々自分に強く言い聞かせている。自分がいま、生きていて不愉快である以上、そして、不快感には勝てなくても快感には積極的になれない以上、もう確実に絶対に、生物を自分の手で増やすような愚行は避けたい。とはいえそれは私の手に余る私にとっての愚行でしかないから、他の人は勝手にしたらいい、どうせ私見で独り言の羅列だし、こんなことをだから言う必要もわざわざないわけだけれども、一応申し開いておくとだね。

 

 そして冒頭に「意識が清明ではない」とか書かれていたことに気が付いて愕然とする。そうか意識が清明ではなかったのか。

 

 それにしても私は最近食事をするというそれだけで恐慌を来すようになって仕舞った。どういう訳かわからないが思い当る節が二つあり、順に述べると、それらはまず、人間の咀嚼音や生活音が虫唾が走るほど嫌いだということで、次に、食物は物品を大抵は不可逆的に汚損する代物であるということだ。そんな代物が自分の部屋にあったら当然落ち着かないし、まともにものも考えられない。何がどうなるかわからないし、自分が当の自分が大嫌いな咀嚼音や生活音、その他の人間に付随する音声を不用意に立てるような生き物であるということを殊更に再認識させられるという機会が一日にそう何度もあると思うと本当にぞっとする。第一、その時間帯には別の部屋で家族が食事しており、隣人が常にいるというだけでも神経がすり減って滑らかになりそうなのに、その意識に加えて自分の咀嚼音の心配までしないといけないのだ、本当に勘弁してほしい、というと、「なんだ、作ってくれる家族がいるのか、または家族に対して料理を用意するような何らかの立場でありながらも家族を放置して自室にこもって自分の家族には、作った料理を与えるだけ与えて、別個に食事をしているのか、いずれにせよ人でなし、人倫に悖る」みたいに思われるかもしれないし、別に「お前には確実にこの苦痛は判らない」などと述べる気もしないし、そんなことにエネルギーを使うのも煩わしい。私には描かれている絵があり、まとめられるのを待っているメモや、読まれるのを待っている本たちがある。それらを放置して、食事や家族に関わり合うことの苦痛を最小化することを図りながらなおかつ、申し開きや開き直りをするようなエネルギーなど私にはない。現にそれらに最大限効率よくかかわるために、また最高のコンディションで関わるために、食事や家族に関する苦痛の、ありえない苦痛や恐怖の低減に努めることでエネルギーを割いて神経をすり減らしているのだから、匿名で不特定多数の「あなたがた」になど関わっていられるキャパシティがすでにないし、関わるつもりもない。

 それに、読まれるのを待っている本や、まとめられるのを待っているメモに対する最大限の敬意で、それに対して可能な限り良い私の状態で接することはあるのだと、私は思う。だからそれらに愛着などをいくばくと感じている以上、私はそれらに対してよい状態で以て接するべきなのだ。

 とはいえ、食事をしないと私の健康状態が悪くなるというのも言える。だから私は恐怖心を必死で惨殺しながら、そいつの死骸の中で食事をしている。全くひどい景色だ。だから私は恐怖心を惨殺するためにもうここまでで1000字弱も書く必要があったし、それに際して周囲の音声を可能な限り整合性のあるような、調和のとれたものとするために、本当は聴覚器官に対してもよくないのに、イヤフォンで結構な音量で音楽かけっぱなしで作業することになった。というのも、調和という点で明らかに自然な環境音は何の配慮もなされずに存在しているために、イヤフォンを外している状態で調和のとれた音声空間にいることなどまず不可能なのだ。音楽が言語だとするなら、自然な音声環境というのは、言語以前、言語以外、または、言語を含みながら、非言語を多分に含んだ未分化な状態、と言えるのではないか?少なくとも私の未熟なまたは偏った感受性では、それらの文法をみとめられなかった。認識、識別、できなかった。しかも文法があるということすら、まだわからなかった。もしかしたら文法があるのかもしれないし、それがわかった時、私はそれらを音楽のように調和のとれたものとしてようやく受け入れられるのかもしれないけれど、それらが私にとってことごとく不協和音に移る類の音楽である可能性を排除しないでそう考えるのは余りにも楽観的過ぎる気もしてくる。いずれにせよ、秩序や規則性や、その類のものが認められない上に不調和に感じられるから非常に不快で、もしかしたらもっと原始的に嫌っているのかもしれないが、どうしたら食事に耐えられるようになるのかわからないし、耐えたくもない。ところで私は人間の立てる音なら、まだ機械の立てる音を好む。確かに、それはたいてい信じがたいくらい「うるさい」。しかし、そこにはまだ秩序が見られるように思う。ストーブの稼働音はだから、文法や内容を理解できなかろうと、文法があることは判る。人間の立てる音は混沌で、無秩序だ。そのうえ、要素が多すぎる。何かに何かを伝えるとか、そもそも存在しているとかの動機があるとは思えない。理由もなくある感じ。私は不自然な調和の方を好む。明白な文法の世界に引きこもっていたい。